Potential episode-3-2
……悪い夢の中にいるような気分だ……
結局、何がなんだかわからないまま、今朝チェックアウトした宿にまた入る。
「おや、お客さん」
数日の滞在で宿屋の主人は四人の顔を覚えていた。
「先の道が土砂崩れで通れなくなってて……戻ってきたんです」
「ええ、心配してたんですよ。
……お客さんたちと入れ替わりで着いた人から『ここから少し西の辺りは土砂崩れだの鉄砲水だので結構な被害が出てる』って聞きましてね。
『西に行く』って言ってらしたから、『大丈夫かねぇ?』って……」
気のいいらしい主人は『巻き込まれなくて良かったですよ』とか『とにかくよく降りましたからねえ』とか言って話を続けた後、
「そういえば、あの美人のお嬢さんは?」
と、訊いてきた。
「……後から来ます」
そうとしか、言い様がなかった。
2−3に分かれて今朝まで使っていた部屋をまた借りることになり、悟空と悟浄と八戒は一旦、自分たちの部屋に荷物を置いて三蔵の部屋に向かった。
中に入ると、今朝までが使っていたと思われるベッドの横にの荷物があり、空蝉となった服はその中にしまわれていた。
荷物の横には片方の靴紐が短いままののスニーカー。
三蔵はテーブルに座っていた。
そのテーブルの上、三蔵の視線の先には
――珠――
顔を揃えたものの、誰も何も言わないまましばらく時間だけが流れた。
それぞれが何をどう考えているのかは想像がつく。
皆、同じ事を考え、同じ答えを出し、同じ疑問を抱えているのだ。
「……とりあえず、状況を整理しましょう」
いつまでもそうしていても仕方がない。
八戒は溜め息をついて切り出した。
「その方が黙り込んでるよりはちったぁマシだな」
同意する悟浄の声にいつもの軽さはなく
「……うん」
と、頷く悟空の声も沈んでいた。
三蔵は一瞬視線を揺らしたものの、口を開くことはなく黙り込んだままだった。
「……あの土砂崩れの現場からここまで移動してきて、僕らが今、無事でいられているのはのおかげということでまず間違いないでしょう」
「ああ、俺もそう思う。あの光は三蔵のケガが治った時や悟空に金鈷がつけられた時に見たのと同じだ」
恐らく、悟空の一件の時、宿にいたはずのが森に現れたのと同じ移動方法だったのだろう。
それで助かったのだ。
「この珠ってさ、が持ってたアレだよね?」
控えめに訊いてきた悟空の言わんとしていることはわかる。
出会った頃、の仮の身体の首に掛かっていた珠。
術が解けるまでの本体が封じられていた珠。
三蔵が力を送っていた珠。
「大きさや透明度からいってもたぶんそうでしょう」
その純度の高い水晶のような輝きは、術が解ける直前の珠と同様だった。
しかし、今、中には何も入っていない。
あの時はの身体が見えていた。
生死はわからなくても、そこにそれがあることが希望だった。
……そこが決定的に違っている。
「なんで今頃んなってそんなもんが出てくんのかねえ……」
術が解けた後、その珠がどうなったなんて、誰も、全く気にも留めていなかった。
が生きて目の前にいるということだけで十分だったから。
「わかりません……でも、が消えたのと無関係ではないでしょう」
あの時、あの状況で、が着ていた服の中から出てきたのだ。
この珠は、今回の件で重要な鍵に違いない。
そして、一番肝心なことがわからない。
――はどこへ行ってしまったのか――
――今、無事でいるのか――
――自分たちがすべきことは何なのか――
この一帯を探したとしても見つかりはしないだろうということは、感覚的にわかる。
このまま何もせずに待っていたとしても、事態の好転はありえず、逆に悪化させるだけであろうということも。
そこまで話し合ったところで、会話は止まった。
何の手立ても思い浮かばない頭に悪い予感だけが押し寄せる。
その不安が口をつぐませていた。
打つ手が無いまま、時間だけが刻まれていく。
いくら考えても答えなど出てくるはずはなかった。
つきつめて考えれば、この事態の原因はの中に芽生えてしまった不思議な力に行き着く。
しかし、が何故、そんな力を持ってしまったのかも、その発生源も、何をきっかけに発動されるのかもわからない。
根本的なことが何一つわからないので、対策のしようがない。
出口のない堂々巡り。
状況は完全に膠着していた。
三蔵は宿に着いてから一言も口をきかないままだった。
考えていることは他の連中とほぼ同じ。
三人の推論に補足を入れる必要もなかった。
そして、沈黙の時間の中で思い出していた。
――昨夜、三蔵は雨続きの苛立ちをぶつけるように、ただ闇雲にを抱いた。
言葉もないまま荒々しいだけの行為だった。体力の限界まで求めた。
事後、覆い被さるように倒れこんだ三蔵の身体を、優しく抱きしめたの腕。
耳に届いた囁き。
『大丈夫……ずっと、そばにいるよ……』
弱々しいけれど、優しく、慈愛に満ちた声だった。
『もし、死んじゃっても、三蔵のそばにいる……
光みたいに、水蒸気みたいに、空気の中に溶け込んで、あなたを包むから……』
顔を上げた三蔵の見ている前で、閉じられたの瞳。
そして、眠りに落ちる寸前、その唇は『……愛してる……』と呟いた。
――愛してる――
の口からその言葉を聞いたのは初めてだった。
昨夜はそれで確かな充足感を覚えたのだが、こういう事態になった今では別の意味があったような気さえしてくる。
まるで……餞別として残されたかのようだ……
こうなることを予感していたとでもいうのだろうか?
その言葉を口にした時、はどんな気持ちだったのだろう?
それを確かめたいのに、がいない――
今までに読んだ文献、伝承として聞いた話、三蔵は必死に記憶を辿って解決策を探していた。
誰も何の名案も思いつかないまま日も落ちようとしている頃、会話もタバコの煙もなく、重苦しい空気だけがたちこめている部屋の中に、突然、一つの声が響いた。
「お前ら、おもしろいもん拾ったなあ」
ドアや窓が開く音は聞こえなかった。
いきなり降って湧いた声の主に全員の視線が集中し、その反応は二つに分かれた。
「貴女は……」
「でた……」
八戒と悟浄はその人物に見覚えがあった。
「え? 八戒、悟浄、知り合い?」
「誰だ?」
悟空と三蔵にとっては初めて見る顔だった。
長い黒髪に肌の透ける白い衣。
尊大な態度と口調。
そして額には紅いチャクラ。
後ろに控えているナマズ髭の男の額にもチャクラがある。
「お前らは覚えてないだろ?
六道の件の時、悟空の金鈷を付け直した『神様』だよ」
「……観世音菩薩様‥だそうですよ、三蔵」
悟浄と八戒の説明に
「『菩薩』だと?」
三蔵は胡散臭そうに眉間に皺を寄せ
「神様ぁ? うっわ、すげェ! 俺、初めて見た!」
悟空は珍しい動物でも目にしたかのような声をあげた。
「……相変わらずいい度胸してんな、お前ら」
『神』を目の前にしてのこの態度。
しかし、ここで神妙になられても却って気味が悪いというものだ。
この四人がこういう連中なのだということは五百年前から知っている。
そいつらが女一人のことでここまで弱りきっているというのが面白く、わざわざ出張ってきたのだ。
「その神が何の用だ?」
三蔵の口調が変わらないのは、この突然の来訪者が神であるとまだ信じきれていないからなのか、の身に降りかかった出来事に平素の余裕を無くしているからなのか。
(……本当に菩薩だったとしたら……)
最高僧である三蔵にはよくわかっていた。
桃源郷広しといえど、神と謁見できる場所は唯一、斜陽殿だけ。
神が、それも五大菩薩の一人である観世音菩薩が下界に現れるなど、よほどの事だ。
そしてその降臨はが消えたことと無関係ではないという確信もあった。
「わざわざいらしたのは、何か理由があってのことですよね?」
前回、菩薩に会ったのは、三蔵が大怪我をし悟空の制御装置が壊れた時……
旅の続行さえ危ぶまれるような危機の時……
八戒も観音の再来にただならぬものを感じていた。
四人の顔を一瞥した観音が答える。
「その珠を回収しにきた」
「回収?」
「その珠には膨大な法力や神通力が込められている。
地上にあっていいもんじゃない」
「ご用の向きはわかりましたが……」
八戒が切った言葉の続きを悟浄が引き継いだ。
「三蔵が力を送ってた珠だってことはわかるけど、なんで今頃になって……」
「だいたい、その珠って何?」
悟空が訊いたのは今更と思えるような根本的なこと。
そして、図らずもその答えは、四人が一番知りたかったことを引き出すものとなっていた。
「あの女そのものさ……今のところな」