on the line-2
町で食事をした後、宿に入った。
いつものようにカードで決めた部屋割りは三蔵、八戒、がトリプル。
悟空、悟浄がツイン。
カードを見た瞬間、三蔵の眉間に皺がよった。
の顔を見ないでいれば少しはこの苛立ちも治まるのだろうに……
タバコの購入を口実に宿を出て、しばらく時間を潰した。
「お帰りなさい。ずいぶんゆっくりでしたね。
シャワー、先に浴びさせてもらいましたよ」
部屋に戻った三蔵を、テーブルでお茶を飲む八戒の声が出迎えた。
(コイツ、わかってて言ってんのか?)
三蔵が不機嫌なことに気付かない八戒ではないだろうが、その原因にまで気付いているのかどうかは微妙に思えた。
の姿が見えないと思ったとき、ユニットバスのドアが開いた。
「あ、お帰りなさい。お風呂、お先でした」
出てきたのは湯上りのだった。
ほんのりと桜色に染まった肌と濡れた髪。
こういう姿を見たくないから外に出ていたのに……
脇を通り過ぎる時、シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
三蔵は舌打ちする思いでベッドに腰を下ろし新聞を広げた。
はそんな三蔵を特に気にするでもなく、八戒に声を掛けた。
「八戒、ソーイングセット貸してくれない? シャツのボタンがとれかかってたの」
「はいはい、ちょっと待って下さいね」
八戒はそう言って、荷物の中から裁縫道具を取り出しながら
「ジーンズの方は大丈夫でした? 木に引っ掛けて破れたりとかしてません?」
と、訊いた。
「うん。表面はちょっと擦れてるみたいだけど、破れてはないよ」
二人の会話から昼間の事を思い出し、三蔵の不機嫌度は増した。
そんな三蔵の心中を知ってか知らずか、テーブルに座ったは作業を進めながら、八戒は茶をすすりながらのん気な会話を続ける。
「そういえば、『吊り橋効果』って知ってます?」
「ああ。えっと、心理学用語だっけ?
ドキドキするような事を一緒にすると、相手の事を好きになっちゃうとかなんとか……」
「ええ、そうです。
吊り橋が怖いドキドキを、相手の事を好きなドキドキと勘違いしちゃうって話です……知ってるのなら大丈夫ですね」
「大丈夫って、なにが?」
「今日のことでが悟浄を好きになっちゃったりしたら、旅の中での心配事が増えますから」
グサ!
「痛っ!!」
は思いっきり指に針を刺してしまった。
「大丈夫ですか? って裁縫、苦手でしたっけ?」
「八戒が変なこと言うから手元が狂っちゃったんじゃない!!」
抗議するように示されたの左手の人差し指の先には、溢れ出た血が赤い玉を作っている。
「僕のせいですか?」
言いながら八戒はの手を取った。
「すぐに塞いであげますけど、刺し傷は周りを圧迫して血と一緒に入った雑菌を押し出した方がいいんですよ」
の人差し指をぎゅっと握りながら言う。
「気功を使ってもらうほどじゃないわ。舐めときゃ治るもの」
「じゃあ」
「…………」
ムカつきつつも意識的に聞き流していた会話が途切れて、三蔵がつい視線を向けた先にあったのは、の人差し指を舐めている八戒と、驚いた顔をしたまま固まっているの姿。
(っ……!)
「だからって、八戒が舐めることないでしょーっ!」
が慌てて手を引っ込める。
「僕のせいでケガしたみたいに言うから、責任を取っただけですよ?」
八戒は心外だとでも言いたげな口調で答えた後、ミニサイズの絆創膏を取り出した。
「……びっくりしたじゃない……」
モゴモゴと口ごもるように言いながら、指に絆創膏を貼るの顔は少し赤らんでいる。
三蔵は新聞を叩きつけるようにベッドに投げ出しながら立ち上がり、ユニットバスの中に入った。
「……三蔵、どうしたのかな? 雨でもないのに最近ずっと機嫌悪いよね?」
「さあ?」
悟浄なら『オトコのコの日なんじゃねえ?』とでも言うところだろうが、さすがに八戒には言えなかった。
(ちょっと、やりすぎましたかね?)
同じ男だ。八戒は三蔵のイラつきの原因にしっかり気付いていた。
あの三蔵が理性と煩悩の間で苦悩している図というのがおもしろく、やっかみも半分手伝って煽ってみたのだった。
(いつまでもちますかねえ。いっそ早くくっついてくれた方が楽なんですけど……)
ボタンをつけ終え裁縫道具をしまうを見ながら思う。
(が恋愛方面に鈍感なのも問題ですね)
他人の気持ちを思いやるという点ではむしろ敏感な方なのに……
三蔵の機嫌が悪いことはわかっても、その原因が自分に対する感情にあるなんて、露とも思っていないらしい。
(無邪気さっていうのは、時には残酷な凶器になるってわかってるんでしょうか?)
一時期、三蔵に接する態度がぎこちなくなっていただったが、先日、懐かしい人物と再会したことで心境の変化でもあったのか、今は以前のように戻っている。
の中で何かが吹っ切れているのなら、後は三蔵次第だ。
三蔵の理性が崩れるのが先か、三蔵の不機嫌のとばっちりをくらう自分たちの我慢の限界が先か……
(キレさせない程度に煽ってみますか)
一行の中での『裏鬼畜大賞』は今の状況を完全に楽しんでいた。
浴室に入った三蔵は服を脱ぐとシャワーの蛇口を捻った。
表示されている色は青。
頭から冷水を浴び、気持ちを静めようと努める。
みっともなくやきもちを焼いている自分など認めたくない。
(人のこと、好きだとかなんとか言っておきながら、他の男にヘラヘラ笑ってんじゃねえよ)
いっそ、自分のものにしてしまえば、楽になれるのだろうか?
しかし、抱いてしまえば、自分の手元に縛り付けておかずにはいられなくなりそうで……
こんな旅の途中で、その危険に巻き込んで、その上、自分の感情でがんじがらめにしてしまっていいものなのか。
『降りたいと思ったところで降ろしてやる』
そう言ったのは自分だ。
この先、西に進むほど危険が増すことは必至だ。
が旅の同行を望まなくなる可能性が全くないとは言えない。
自由にしておいてやりたいと思うのに、束縛したいとも望む。
自分がわからなくなりそうだ。
しばらくそうしていると、ノックの音がした。
「三蔵、中で寝たりしてませんか?」
それで頭がすっきりするのなら一晩中でもこうしていたいのに、状況がそれを許さない。
「誰が寝るか」
その言葉と共に開いたドアからは湯気も熱気も漏れてこない。
(……そうとう行き詰まってるみたいですね……煽るのはやめておいてあげますか)
「ちゃんと拭かないと風邪ひきますよ?」
三蔵の臨界点突破が近いことを感じた八戒はそれだけ言ってやった。
深夜、三蔵は目を覚ました。やはり今夜も眠りは浅い。
また冷水でも浴びてみようか。
数歩、踏み出したが、眠っている八戒の姿が目に入り、やめた。
気付かない八戒ではないだろうし、知ればきっと、朝、何か言ってくるに決まっている。
これ以上、煩わしいのはごめんだ。
足が無意識のうちにのベッドサイドに向かった。
ここが二人部屋だったなら、そのまま襲い掛かっていたかもしれない。
枕に流れている髪を一房、手に取ったのも無意識のうち。
柔らかい毛先が指先をくすぐって落ちた。
以前、妖怪の襲撃を受けた時、惜しげもなく切り捨てられた髪……
毛布との間からわずかに覗いているのは、人質になるのを嫌い、自ら傷付けた首筋。
足手まといなら、連れて行けないと思うなら、殺してくれと言ってきた。
姉にも等しい人物との新生活より自分たちとの旅を選んだ。
(お前がそんな女だから俺は……)
そして今、こんなにも苦しいのだ。
十六夜の月が雲に隠れた夜の闇の中に三蔵のつぶやきが溶ける。
「……全部、お前のせいだ……」
end