identity-2

その夜。
宿の浴場で一人になったはあの占い師に言われたことを考えていた。

『人間でも妖怪でもない』

でも、自分は人間として生まれたはずだ。
髪も目も紅くはないし、耳も尖ってはいない。

『背中の上に大きな竜を飼っている』

そう、あの時に感じた。自分の中に自分以外の何かがいるような不思議な感覚。
今は感じないから、なくなってしまったのならいいと思っていたけれど『眠っている』だけだなんて……

『その竜を起こさないように』

でも、その方法がわからない……

何故、いつの間に、そんなものを背負ってしまったのだろう?
その結果として人間ではなくなってしまったのだろうか?
妖怪でも人でもないのならなんだというのだろう?

いくら考えても答えの出ない問い。

『諸刃の剣』

そんなもの……欲しくない。

あの出来事の後、今は身体を治すことが先だと、動けるようになってからは寝込んで迷惑をかけてしまった分を取り戻すことが先だと、後回しにしてきた。
考えてもどうしようもないことなら考えずにいようと……

それを今日、目の前に突きつけられた……

(ああ、でも……悟空の言ってくれたことは嬉しかったな……)

だから』

(うん、おんなじだよ……)

人間とか妖怪とか関係なく、悟空が悟空だから、悟浄が悟浄だから、八戒が八戒だから。

(だから、皆が大好き……)

今日、言われたことはとても気になるけれど、気にしていることを知られるとその大好きな皆にまた心配をかけてしまう。

考えるとドツボにハマってしまいそうなことなら考えない方がいい。
時間の経過とともに事態や状況は変化していくものだ。
少なくとも現時点では何もわからないのだから、もう少し様子を見てみよう。

(うん。これを考えるのはひとまずここで終わり)

今日は三蔵との二人部屋だから、塞いでいるとまたいろいろ勘繰られてしまうだろう。

油断すると沈み込んでしまいそうな気持ちは、何か他のことをすることでごまかそう。

のぼせる前に湯船からあがり、一つ深呼吸をしてから浴室を後にした。

明日も弁当を作ろうか? おかずは何にしよう? などと考えながら、廊下の角を曲がった時

「きゃ!」

「おっと! 危ねえ」

誰かにぶつかりそうになった。
咄嗟によけてくれた相手の紅い髪が揺れる。

「悟浄……ごめんなさい。ちょっと考え事してて」

「考え事?」

「うん。明日もお弁当作るなら、何を入れようかな? って……出掛けるの?」

風呂に行くのなら着替えくらい持っているはずだがそれは見当たらない。

「ああ、ちょっと飲みに。
それにしてもいーねー! 湯上りの風情ってのは色っぽくて。
口説きたくなってくんな」

「私、口説いてどうするのよ」

そう言いながら苦笑するを見て、悟浄は少し意地悪な気分になった。

「だぁってさ、誰かさんは気の利いた口説き文句なんて言いそうにないし?
甘い言葉に飢えてねえ?」

言ってやるとは言葉に詰まり、湯上りでほんのりと染まっていた頬は真っ赤になった。

「関係ねーって。
彼氏持ちだろーが、人間であろーが、なかろーが。
イイ女はイイ女なのよ。俺にはな」

軽薄そうなセリフの中にさらりと紛れ込まされたへの気遣いの言葉。

胸がじーんとなって、は微笑んだ。

「……やっぱり、悟浄はカッコイイね」

「当たり前だろ?」

ニッと笑ってウインクをする悟浄に笑顔を返す。

「じゃ、行ってくっから」

「うん。いってらっしゃい」

行き過ぎた悟浄を振り返って見送って、歩き出そうとすると背後から声をかけられた。

「そーそー、弁当な。梅干さえ入ってなけりゃ、俺的にはオッケーだから」

「わかった」

返事をして歩き出したの足取りはずいぶん軽くなっていた。

部屋に戻ると、中には三蔵の他に八戒の姿があった。
テーブルの上には地図が広がっている。

「ああ。お邪魔してますよ」

「うん、どうぞごゆっくり。今、お茶淹れるね」

お茶を淹れ始めたの後ろで交わされる会話は、やはり今後のルートについてだった。

「……では、地図上に町や村が多いこちらの道を行く、ということで……」

「ああ。地図には載ってても実際はもう無いってことも多いんだ。
物資の面を考えてもそれが妥当だろう」

「西に進むにつれてそういう事が多くなってきましたし……
異変の影響の一つですね……」

お茶を出しながらの胸は切なく痛んだ。
そう、自分が生まれ育った村ももうないのだ。

「でも、その元凶を突き止める為に皆は旅をしてるんでしょ?」

「ええ、そうですね」

「……西には個人的な用もあるんでな」

知り合ってからの間には確信していた。

この四人なら、負の波動とやらに満ちた今のこの世界をなんとかできる。
この旅は桃源郷にとって恐らく唯一の希望なのだ。

「私に出来ることがあるなら、なんだってするからね」

「いや、いい」

「なんでよ!?」

心からの一言を即効で否定されて思わず気色ばんでしまったに、三蔵は新聞を開きながらしれっと答えた。

「お前が無駄に張り切るとろくなことがねえ」

「ひどっ!!」

「まあまあ。
に限らず、人間、気負い過ぎると空回りしがちだってことですよ。
ああ、明日はお弁当作らなくてもいいですよ。もう宿の人に頼んでますから」

「あ……そうなんだ……」

数少ない『出来ること』の一つを取り上げられた気がしてがっかりしただったが

「今夜は朝までゆっくり寝てください」

そう言われて、八戒なりの気遣いなのだと思い直した。

(今日はあんなこと言われちゃったしね……)

「うん……ありがとう」

その後はお茶を飲みながら他愛のない話をして、湯呑みが空になったところで八戒は立ち上がった。

「じゃあ、僕はこれで」

「ああ」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

そして、はそれに気づいてドアを出ようとしている八戒を呼び止めた。

「あっ、八戒! 地図、忘れてる」

ドアの外の八戒が立ち止まり振り返る。

「ああ、すみません」

苦笑して地図を受け取った八戒が、ふと思いついたように訊いてきた。

。以前、僕が妖怪だって話をした時、なんて言ってくれたか覚えてますか?」

唐突な問いだったが、八戒に『ここにいていいのかな?』と訊いた時のことはよく覚えている。

「うん」

「だったらいいんです」

頷いたににっこりと微笑んで、八戒は自分たちの部屋に戻っていった。

『そんなの私にはどうでもいいことよ。
八戒は八戒だし、悟空は悟空、悟浄は悟浄でしょ?』

確か、あの時の自分はそんな風に答えた。

それを思い出して、八戒が何故、あんなことを訊いたのかがわかった。
ドアを閉めるの胸はしみじみとした喜びに満たされていた。

「三蔵、お茶のおかわりいる?」

「ああ」

八戒の使った湯呑みを片付けて、三蔵と自分の二人分のお茶を淹れながら、はこみあげる涙を抑えることができなかった。

「はい」

お茶を差し出すの短い涙声に気づいて、三蔵は読んでいた新聞から顔をあげた。

「何、泣いてやがる?」

「私ってすごい倖せ者だなぁって思って」

「はあ?」

眉間に皺を寄せた三蔵に笑ってテーブルに座ったは買出し中の出来事と、その中で言われたことを話し始めた。

実は、が風呂に行っている間に、八戒からも報告を受けていたことなのだが、三蔵はそのことは言わず、黙って聞いていた。

「……三人とも、それぞれに『気にするなよ』みたいなこと言ってくれるんだもん。嬉しくって」

「気にしてたのか?」

「うん……でも、もうやめたわ」

泣き笑いのに溜め息をついて、三蔵はタバコに火を点けた。

「どいつもこいつもバカばかりだな」

「どういうこと?」

「……お前が普通の人間じゃねえってのは最初からわかってた事じゃねえか」

「え?」

「普通の人間はあんな像になったりなんざしねえよ」

「だって、あれは術にかけられてたんだし、今は元に戻れてるんだし」

「自覚してなかったのか?
元に戻れたっていっても、実際に過ごしてきた時間と身体の成長の時間が違ってるんだ。
十分『普通』じゃねえだろうが」

「あ……そっか……」

「元々『普通』じゃねえとこに今更もう一つ『普通じゃねえ部分』が追加されたところでどうってことねえだろう」

「…………」

「だから、気にする方も、『気にしてるだろう』って勘繰る方もバカだってんだよ」

それは表面だけ見れば、辛らつな言葉ばかりだったかもしれない。

でも、は思い出していた。

『あの出来事』の後、不安がる自分に三蔵はこう言ってくれたのだ。

『お前はお前だ。それ以外のものじゃない』

『俺を信じろ。お前が望まないことをしようとするなら、俺が止めてやる』

誰よりも早く、だと言ってくれた。
誰よりも先に、今の自分を受け止めてくれた。

「……バカばっかりで、苦労するね。三蔵様」

「まったくだ」

「ふふっ」

「フッ」

唇の端を上げる三蔵の顔を見ながら笑顔で飲み干した今夜二杯目のお茶は、倖せの味がした。

余談になるが、翌日の昼に蓋を開けた宿の人に作ってもらった弁当は、ご飯の上に大きな梅干が乗っていたし、量も一般的なものだったので、悟浄と悟空には非常に不評だった。

「っかー、なんで梅干なんだよ!?」

「ご飯が傷みにくくなるって理由で、ある意味お約束なんですけどね」

「つーか、これじゃ全然足りねえって!!」

「うるせえ! 文句言うなら食うな!!」

「彩りもキレイだし、おいしいじゃない」

「ええ、栄養のバランスも考えてあるみたいだし、そんなこと言っちゃ作ってくれた方に失礼ですよ?」

「「 でも、やっぱ、の弁当の方がいい〜〜! 」」

「はいはい。また作るから!」

「バカどもが。黙って食え!」

そんなやりとりを笑いながら、は思っていた。

――やっぱり、私はとんでもない倖せ者だ――

end

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