『I love you』
エントランスを抜けてそこに踏み込んだ瞬間、が破顔したことが見なくてもわかった。
無言で大きく吸い込んだ空気がうっとりとしているようなため息として吐き出される。
「ちょっと回ってみましょうか」
小さく声を掛けながら見た顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「うん」
は答える声量とは反比例に大きくうなずき、そのあまりに予想どおりだった反応や喜んでいる様に思わず出そうになった笑い声を八戒は必死に堪えた。
ここは静かに利用しなければいけない場所なのだ――
今日、午後になって辿り着いたのは割りと大きめの町だった。
幸い、すぐに宿も見つかり、いつものように三蔵以外の四人で買い出しに出かけた。
その帰りに見つけたのだ、ここを。
赤い煉瓦造りの四角い大きな建物は近づく前から目を引いていた。
そして、その前に差し掛かり、掲げられている看板を目にした途端、の足が止まってしまったのだ。
の目を釘付けにしたのは『図書館』の文字だった。
「え? ここ図書館なの!? こんなに大きいなんて、すご〜い!」
「『図書館』って……本がいっぱいあるとこだろ?」
「お猿ちゃんには縁のねーとこだな」
「猿って言うな! エロ河童にだって縁なんかねーじゃん!」
感激しているらしいとは裏腹に、全く関心の無さそうな二名はそのまま喧嘩を始めてしまいそうな勢いで、八戒は慣れた調子で割って入った。
「はいはい、道の真ん中で喧嘩しないでください。
続けるのならどうなるか、二人ともわかってますよね?」
にっこりと笑いながら言ってやった効果はてきめん。
悟空も悟浄もギョッとした表情と共に静かになった。
はというと、そんな三人のやりとりにも気付いていない様子で、近くの窓からしきりに図書館の中を窺っている。
どうやら入りたくてうずうずしているようだ。
二人と一人のどこまでも正反対な様相に八戒は笑ってしまった。
確かに悟浄が手に取る本は雑誌程度、しかもそのほとんどが成年男性向けの物なので『読む』というよりは『見る』に近いし、悟空が自発的に本を読んでいるところなど見た記憶がない。
それに引き替え、が宿で読書に耽っていたり、本屋で嬉しそうに本を眺めたりしている姿は今までに何度も見ている。
本とは縁遠い男どもと違って、は読書を趣味にしているのだ。
「中に入ってみますか?」
窓ガラスに張り付くようにしている後ろ姿に声を掛けると
「いいの!?」
は即座に振り向いて目を輝かせた。
悟空と悟浄の言い合いは見事なまでのスルーぶりだったことを思えば、その反応の速さは現金なほどで、八戒は笑いながら言ってやった。
「ええ。買い出しは済んでますし、時間も半端ですから夕食までは特にすることもないでしょう?
荷物を持って帰るくらいこの二人だけでもできるでしょうし、正直、僕もちょっと見てみたいんです」
こうして、八戒との二人で図書館をのぞいてみることになった。
悟空と悟浄の二人が文句を言うこともなく先に帰ったのは様々な理由からだろうが、その最たるものは八戒に寄り道を決めさせたのと同じだろう。
結局、皆、の笑顔には弱いのだ。
「ちょっと回ってみましょうか」
「うん」
平日の午後なので他の利用客も少なく、館内はとても静かだった。
ずらりと並んだ本棚と閲覧用の長机に椅子、紙やインクの匂い。
は沢山の本を前に胸を躍らせているようだが、八戒は逆に心が落ち着くのを感じていた。
通っていた大学の図書館を思い出させるような懐かしい空気にため息が出る。
普段は騒がしい体力勝負の日々を送っているのだ。
たまには静けさの中、アカデミックな雰囲気に浸るのも悪くない。
二人で本棚を眺めながら音を立てないように歩いていると、図鑑が置いてある辺りでが足を止めた。
「ちょっと、この辺、見てていい?」
八戒を見上げて囁く様に訊いてきたに小声で答えてやる。
「ええ。ゆっくり、どうぞ」
常識的に考えて旅行者には貸し出し不可だろうが、この場で少し見るくらいなら大丈夫だろう。
は『ありがと』と、笑顔を返し、早速本棚に手を伸ばした。
どうやら、何か調べたい事でもあるようだ。
八戒にはそういった目的らしい目的はなかったので、そのまま一人で続きを見て廻った。
この場所にいることがなんだか妙に心地良かった。
「何を調べてたんですか?」
図書館を出た後、宿への道を歩きながら、八戒はに訊いてみた。
館内でふと目に留まった本をパラパラとめくってみたついでにの方を見てみると、は図鑑のコーナーの近くの机に座り、熱心に本を読んだりメモを取ったりしていたのだ。
「えーと、山菜とか薬草のことをちょっとね」
「野草のことですか?
は今だって十分詳しいと思いますけど」
今更どうして、と、不思議に思いながら言うと、
「そんなことないよ。最近は初めて見る植物も多いもん」
は苦笑交じりに否定し、八戒は思い至った。
広い桃源郷だ。
場所によって地質も気候も違うので自生する植物も変わってくる。
自分たちは日々移動しているので、入手できる野草の種類も日替わりだ。
山菜や薬草を利用しようと思えば広い知識が必要になるだろう。
「勉強熱心ですね」
「ただの自己満足よ。それにしても、大きい図書館だったね」
褒められるのが照れくさいのかはそう話題を変え、八戒はそれに乗った。
「ええ、ただ眺めて廻るだけでも時間がかかったし、楽しめましたよ」
「洋書が多くなかった?」
「そうですね。カウンターのところに図書館の紹介が貼ってあったんですが、洋書の大半は個人からの寄付だそうですよ。
シェイクスピアの研究をしていた大学教授だったらしいので、その関連の書籍が多いんでしょうね」
「シェイクスピアかぁ……
『ヴェニスの商人』と『真夏の夜の夢』は読んだかな?
でも、四大悲劇は一つも読んでないや。
読書が好きって言ってるくせに恥ずかしいね」
はそう自虐的に笑ったが、それは読書量が足りないわけではなく好みの問題だろう。
以前、『読後感の良い話が好き』と言っているのを聞いたことがある。
恐らくは悲劇が苦手なのだ。
ならばと思って話題を振ってみた。
「四大悲劇といえばハムレットの『To be or not to be, that is the question』ってセリフ、ご存知ですか?」
「えーと、『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』……だっけ?」
「ええ、今はその訳が一般的みたいですが、最初は『あります、ありません、あれはなんですか?』と訳されたそうですよ」
「えぇっ? 本当に?」
は驚いたように言った後、笑い出した。
この話の種は成功だったようだ。
「本当です。百年以上も前のことですけど、直訳にもほどがありますよね」
「意訳って大切よねえ……」
しみじみした口調ののそのセリフで、また一つ思い出した。
「意訳……そういえば、やはり百年ほど前、『I love you』を『私、死んでもいいわ』と訳した人がいるそうですよ」
「へぇ〜! 情熱的ね」
「それから、ある文豪は『月が綺麗ですね』と」
「『I love you』を?」
「ええ、当時はそれで伝わったのかもしれませんね」
「素敵な感性ね……」
感心したようにため息をつくが、誰のことを考えているのかわかった気がした。
ふと起きた悪戯心のままに訊いてみる。
「だったら、『I love you』をどう訳します?」
「私? え〜と……」
はそのまま考え込み、やがて何か思いついて口を開いた。
「『傍にいさせて』……かな?」
「なるほど。らしいですね」
誰に対しての『I love you』なのかがわかりやす過ぎて、八戒は少し笑ってしまった。
「そうかな? 八戒だったらどう?」
「そうですね――」
訊き返され、困った展開になったと思っていたら、思わぬところに助け舟を見つけた。
「って、時間切れです。ほら」
「あれ? 悟空?」
話しながら歩いているうちに宿の玄関が見えるところまで来ていたのだが、そこに悟空がいたのだ。
「あー! やっと帰ってきた! おーい!!」
悟空も二人を見つけたらしく、大きく手を振っている。
「二人とも早く来いよー! もうすぐ晩飯だってー!」
わざわざ待ち構えている理由があまりに悟空らしくて、八戒とは顔を見合わせて笑ってしまった。
「急ぎましょう」
「うん」
を促して早足で歩きながら思った。
『きみを愛してる』
かつてそう口にしたこともあった。
今はまだ、誰かに思いを告げることなど考えられないけれど、いつかまた、人を愛せる時が来るのなら、その時には自分の言葉で伝えられたらいい。
自分なりの『I love you』の訳はその時に思いつけばいい。
とりあえず、今は思う。
――明日も晴れるといいですね――
end