サクラ
うららかな春の午後。
タバコを買いに出た帰り、宿への道をたどっていた三蔵はふと足を止めた。
目の前をヒラヒラと横切っていった薄紅の花びら。
風上に視線を向けると、道の脇の空き地に一本の木があった。
青空に映える満開の桜。
風が吹くたびにハラハラと舞い散る様は美しいものに思えた。
(一服していくか)
宿に戻っても同室のは少し体調を崩している。
傍での喫煙は控えた方がいいだろう。
道をそれ、桜の木にもたれて、買ったばかりのマルボロに火をつけた。
(アイツがこれを見たらなんて言うだろうな……)
きっと『うわぁ』とか声をあげて、『きれいー』とか言いながら笑って、うっとりと眺めるのだろう。
その様子が目に見えるようで、自然と唇が笑みの形を作っていた。
しかし、今のは身体を休めることの方が大事だ。
町を出る時にここを通らせるのは回り道になるし、それではゆっくりと見物はできない。
それにそんなことをしたら、またあいつらがいろいろ言ってきて煩わしいに決まっている。
そして思った。
は何故いつもあんなに楽しそうに嬉しそうに笑うのだろう?
五人でいる時はわかる。
冗談を言って道化る者や天然ボケをかます者がいる。
だが、宿で二人になった時は?
互いに新聞を読んだり、本を読んだりの静かな時間には会話らしい会話はあまりない。
悟空のように思ったことを素直に口にすることなんてできない。
悟浄のように歯の浮くセリフを吐いたりなんかしたくない。
八戒のように気の利いた言葉を並べられる芸当など持ち合わせていない。
一般的にも言葉を尽くしたとしても気持ちが伝わらないことなど、実によくあることで……
第一、今まで、誰かに何かを伝えたいと思うことなどなかった。
いつだったか、はからずも立ち聞きしてしまったのセリフが蘇った。
『言葉じゃ表現しきれないものもあると思うの』
『何も言わない三蔵でいいの……』
……同じ、なのだろうか……?
咥えたまますっかり短くなってしまったタバコを落として足でもみ消した。
「良かったら一枝、差し上げましょうか?」
立ち去るべく足を踏み出そうとした時、声を掛けられた。
見ると、剪定鋏を持った年配の婦人が立っている。
「いや……」
断ろうとしたが、婦人は三蔵の目の前で枝をパチンと切り取った。
「『桜切るバカ、梅切らぬバカ』なんて言いますけどね。
今度、ここに家が建つことになって、この木も来週には処分されてしまうんですよ」
だから、せめて一部でも残そうと接ぎ木をする為の枝を切りに来たという。
「お坊様に愛でていただけるのなら、この木も嬉しいでしょう」
そう言う少し寂しそうな笑顔に、差し出された枝をつい受け取ってしまった。
受け取ったもののどうしたものかと思案する三蔵に軽く会釈して婦人は立ち去った。
花を持って歩くような柄ではない。
しかし、その場に捨てることにも躊躇いがあった。
(アレに見せたら……)
に見せたら喜ぶだろうか?
そう思って、持ち帰ることにした。
伝えられない、自分でも上手く言い表せない言葉の代わりに、この枝を届けよう。
この花の一よの内に 百種の 言そ隠れる おほろかにすな
(万葉集 巻八 藤原広嗣)
end