シャツ
「あれ?」
そう呟いて、悟浄は咥えていたタバコを指先に移した。
買出しから戻って、宿に残って洗濯をすると言っていたに、買ってきた物を届けに来たのだが、が部屋にいない。
頼まれていた飲料水の他に、の好きそうな菓子も買ってきたので喜ぶ笑顔を見られることを期待していたのに、空振りしてしまったようだ。
(どこ行ったんだ?)
肩透かしをくらった気分で再びタバコを口に戻して、悟浄は部屋の中を見渡した。
今日の宿では一人ずつに部屋がとれた。
一人用のこぢんまりした室内は自分に割り当てられたものと大した変わりはないが、清潔感が漂っているような気がするのはの部屋だと思うからだろうか?
ベッドの上には洗濯を終えた衣類が持ち主ごとに分けられ、きちんと畳まれて置かれている。
時間的に自然乾燥をしたとは思えないし、の分の一番上に乗っている普段パジャマ代わりにしているシャツまでなんだかパリッとしているので、たぶん、アイロンで乾かしたのだろう。
よくあることだが、マメな奴だと思う。
持ってきた物は目立つ場所に置いて行くかと思ったところで、
「ふぇーっきしっ!!」
不意にくしゃみが出た。
(誰か噂でもしてんのか?)
スンと鼻を啜る。
きっとこの街の女の子が『イケメンを見かけた』とでも言っているのだろうと思っていると
「あ、悟浄、帰ってたの?」
そう声を掛けられた。
振り向くと、ドアのところにがいる。
「ああ、頼まれてたモン、持ってきた」
片手に持ったままになっていたレジ袋を軽く持ち上げ、
「それと、これはお土産な」
買ってきたフィナンシェを取り出した。
「あっ! それ……」
それを見た瞬間、の目が輝く。
「いいの?」
「ああ。お前、こーゆーの好きだろ?」
「うん、大好き! ありがとう!」
受け取ったは満面に笑みを浮かべている。
(そーそー、これが見たかったんだよ)
笑顔を返しながら悟浄も満足だった。
「じゃ、戻るわ」
見たかったものは見られた。
長居をするのは無粋というものだ。
ドアに向かおうとしたら
「あ、悟浄、ちょっとお願いしていいかな?」
と、呼び止められた。
「ああ、なんだ?」
「この洗濯物――ああっ!!」
何かを言いかけたが突然、大きな声を上げ、驚く悟浄には目もくれずユニットバスへと飛び込んだ。
何事かと悟浄も慌てて後を追うと、はせっかく乾かしたシャツを水道の流水に晒している。
「おい、どうしたんだよ?」
わけがわからない悟浄が訊き、シャツを絞ったがくるりと向き直る。
その怒ったような表情に悟浄は一瞬たじろいだ。
「これ、悟浄でしょう?」
の指先に抓まれているのは濡れそぼったタバコの吸殻。
それを見た瞬間、悟浄は何が起こったのかを悟った。
「あ……」
無意識のうちに声が漏れ、同時に冷や汗が出る。
が怒るのは当然だ。
自分はタバコをふかしながらこの部屋に来た。
そして、くしゃみをした。
――タバコを咥えたままで――
そう。
くしゃみをした拍子に口から飛び出した火の点いたタバコがの洗濯物の着地してしまったのだ。
しかも、直後にが戻ってきたのでうっかりそのまま失念していた。
が手にしたシャツは胸元の辺りが焼け焦げ、もう補修はできない状態になっている。
「悪い! わざとじゃねぇんだ!」
悟浄は慌てて事情を説明し、平謝りに謝った。
発端は自分の不注意に他ならないし、一歩間違えば火事になっていたとか、そうなった場合、宿にも他の宿泊客にも近隣の住人にも迷惑を掛けてしまうところだったのだとか、『三蔵一行』の不祥事として知れ渡ったらこの先の道中にも影響が大きいとか、の言う事もことごとく尤もだ。
弁明の余地がない悟浄は平身低頭でのお小言を拝聴した。
怒っていたも、ひとしきり説教をしたこと、悟浄が潔く自分の非を認めたことで、気持ちはあらかた静まったらしいが、最後に大きなため息をついて、悟浄の前に手を差し出した。
「タバコとライター出して」
「へ?」
「預からせてもらいます。
今日はもうタバコは吸っちゃいけません」
声のトーンこそ普段と変わらないものに戻っているが、丁寧語であることが妙に怖い。
タバコが落ちた場所がベッド等の宿の備品でなかったこと、シャツ一枚だけの被害で済んだことは不幸中の幸いだったが、自分のヘマでにとばっちりを食らわせてしまったのは事実だ。
「明日、宿を発ってから返すから……それで許してあげる」
「……はい……」
悟浄は大人しくハイライトとジッポを渡した。
その日の夕食の後、悟浄は一人で街へと出掛けた。
目指すのは飲み屋――ではなく、洋品店だ。
あの後、悟浄は持って行くように頼まれた洗濯物を持ったまま、部屋を出る前に再度、にシャツのことを謝った。
は一晩の禁煙で相殺にすると、普段着にしていたシャツでくたびれてきているものを寝間着に回すから大丈夫だと、言ってくれ、最後には笑顔を見せてくれた。
しかし、このままでは悟浄の気が治まらない。
目当ての店を探しながら、何を買うか考える。
が寝る時にパジャマを着ないのは夜間の襲撃に備えてのことだと聞いたことがある。
ゆったり目のシャツにするか、そのまま外に出てもおかしくないデザインでパジャマにもできる部屋着にするか……
(とりあえず、店にあるものを見て決めるか)
そう思っていたのに、やっと見つけた店は既に閉まっていた。
(なんだよ? 夜の早ぇ街だな、おい……)
他の店を探そうにも商店街に開いている店など見当たらない。
闇雲に歩き回ったとしても目的の買い物を済ませることはできないだろう。
(しょーがねーなー……次の街で買うか……)
仕方なく宿へと引き返す。
途中でタバコの自販機を見つけ、つい、コインを入れそうになったが、そこはなんとか自制した。
部屋に戻ったものの、悟浄はどうにも落ち着かなかった。
原因はわかっている。
ニコチン不足だ。
気分転換にシャワーを浴びても、浴室を出れば目や手がタバコを探してしまう。
こうなったらとっとと寝てしまうに限る。
アルコールが入れば眠気もやってくるだろうし、口寂しさも少しは紛れるだろう。
悟浄は次々に缶ビールのタブをおこして睡魔の訪れを待った。
しかし、期待とは裏腹に飲めば飲むほどタバコが吸いたくなってきてしまう。
酔ったことで自制心が揺らいできてしまったのだ。
完全に逆効果だった。
そして、ついに悟浄は腰を上げた。
確かフロントの近くにタバコの自販機もあったはずだ。
ドアノブに手を掛ける。
に対する後ろめたさからだろうか?
ノブを回す手つきはそっとしたものになり、少しだけ開いたドアの隙間から窺うように廊下を覗いてしまう。
時間的に無人だろうと思ったそこには人影があった。
見えたのは、廊下を歩く白い法衣の後姿。
それがある部屋の前で立ち止まる。
悟浄は顔を引っ込め、ドアを閉めて、ため息をついた。
「なーんだ……」
タバコを買いに行くつもりも、吸いたい気分も消えていた。
(そうだよなぁ……)
もう飲む気にもなれなくてベッドにうつ伏せに倒れこむ。
(……なんだっていいんじゃねーか……)
男と女が一緒に夜を過ごすのなら、パジャマなど必要ない。
悟浄は寝返りを打って虚空を見つめた。
柄じゃないと知りつつ平謝りしたのも、反論もせずに叱られていたのも、素直にタバコの没収に応じたのも、新しい服を買ってやりたいと思ったのも――
全ては惚れた弱み。
しかし、の心は他のところにある……
目を閉じて再びため息をつく。
買うシャツは寝間着には適さないようなものにしよう。
あの男に脱がされるための服になど決してできないように……
悟浄はそう思いながら毛布に包まった。
この夜、悟浄の部屋を満たしたのは、タバコの煙ではなく、幾度となく吐き出したため息だった。
(万葉集 巻十一 詠み人知らず)
end