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「三蔵、何か落としたよ?」
事の始まりはそのの声だった。
野宿の後の昼過ぎにこの町に着き、まず空腹を満たしてから宿を決める流れで、食堂や宿屋を探しながら街中を歩いていた時だ。
いつものように皆の後ろの方からついて行っていたは、三蔵がタバコを取り出した拍子にその袂から何かが落ちるのを見たのだ。
「あ! これ!」
が手を伸ばして拾ったそれは三仏神のカードだった。
「え? 三蔵、またカード落としたのか?」
「なるほど、三蔵はこうやってカードを失くすんですね」
「でも、ま、今回はセーフってとこじゃね?」
の手にあるカードや三蔵に視線をやりながら言う三人の口調はからかうようで、はそんな四人に呆れた。
とりあえず拾ったのが自分で良かった、と、ため息をつきながら落ちた時についたカードの汚れを手で払って――
「あー!」
それに気付いて思わず声を上げた。
何事かと声の主を見やった四人にが絶望的な事実を告げる。
「……このカード、期限、切れてる」
毎日移動しているので更新の通知も一行のところには届かない。
ここ二日は野宿だったし、その前に立ち寄った村は小さくて、店でも宿でもカードを使えず現金払いだった。
つまり、手持ちの現金は少ない。
食堂で飲み食いする前に気付けただけ不幸中の幸いだったかもしれないが、一行は非常に厳しい経済状態に置かれているのだった。
取り急ぎ路上で通りかかった人から情報を集め、教えられた商店街の詰め所に向かった。
そこはカードの発行や更新といった業務も扱っている上、商店街における求人の掲示板もあるというのだ。
三蔵がカードの手続きをしている間、他の四人は掲示板に張ってある求人広告を見て検討した。
長期雇用の仕事はできるはずがないが、短期でも単位が月や週のものが多い。
決めかねていると、一件だけ、超短期のバイトがあった。
「これ、期間が『数日』って書いてあるけど、どうかな?
『若干名』ともあるから四人とも雇ってもらえるかもだし」
「『茶房』……喫茶店か? 悪くねえんじゃね?」
「そうですね、時給もまあまあですし」
「飯つきだといいなあ」
飲食店ならば、出来ることが掃除くらいしかない三蔵には意見を聞く必要などない。
手続きを終えた三蔵と共に詰め所を出てその店を探した。
見つけた店の店主は三十前後といった感じのさばさばした女性で、よほどの人手不足だったらしく、即、採用を決めてくれた。
更に一行の事情を聞くと知り合いが経営しているという近所の宿に割安で泊まれるように手配すると言ってくれ、先払いとなっている宿賃分の現金まで給料の前借という形で支給してくれたのだ。
宿のことに関しては『働く前に風呂に入って身体を清潔にしろ』という店の衛生上の都合もあったのだろうが、仕事と同時に落ち着く場所が決まったのには助かった。
店主の客商売をしている女性らしい細やかな心遣いや面倒見のよさは有難かったが、その姉御肌が見過ごしてはくれなかったものがあった。
仕事についての具体的な話になった時、働くのは三蔵以外の四人だと聞いた店主がそれに納得できないようだったのだ。
「どうして彼は働かないの? 私は五人とも雇うつもりだったのよ?」
「この人は料理もできませんし、性格的に接客にも向いていません。
雇ってもらってもご迷惑をお掛けすることになる可能性が高いんです」
「そうかもしれなくても……なんだかねぇ……」
八戒の説明とそれを当然としているような五人の態度から、多少は許容の気配を見せ始めた店主だったが、まだ釈然としないらしく、なにやら考え込んでしまった。
確かに傍目には、大の男が自分では何もせずに仲間の稼ぎで悠々自適――という風に見えるだろうし、そういうことには感心しないという人間がいることも理解できる。
「その分、私たちがちゃんと働きますから」
「女性客への接客なら、俺に任せとけばいいし」
「俺は掃除と皿洗いくらいしかできねえけど頑張るから!」
それぞれのフォローの言葉を聞き、店主はやっと口を開いた。
「じゃあ、こういうのはどう?」
その提案を、最初は拒絶した三蔵だったが、結局は受け入れるハメになったのだった。
一行が働くことになった店は店名の一部に『茶房』とついているものの、洋風な雰囲気もある小洒落たカフェだった。
その一角で、コーヒーとタバコを味わいつつ新聞を広げる。
一見、優雅に見える時間の過ごし方をしながらも、三蔵の機嫌は決して良くはなかった。
店主は言ったのだ。
「外から見える席に座ってサクラやってよ。
コーヒーは奢るし、時給は出せないけど食事くらいはつけるわよ?
あなた、顔がいいから集客につながると思うのよね」
「俺に、人寄せパンダになれというのか!?」
三蔵は当然反発したが――
「冷静になって考えてみなさいよ。条件は悪くないはずよ?」
「確かに、願ってもない好条件です」
「やれよ。
どーせ宿に残っても、茶ーすすったり、新聞読んだりするだけだろ?」
「そっか、場所が違うだけですることは同じなんだ」
「言われてみれば、ガラガラの店内って入りにくいものねぇ……」
状況がそれを許さなかった。
そして、今、三蔵は不本意ながらサクラとして店にいる。
法衣を脱いで、シャツにジーンズというラフな姿で、外から顔は見えるが不機嫌なオーラまでは感知できないという絶妙な位置のテーブルに座って。
そのサクラの効果なのかどうかはわからないが、店内は混んでいた。
なんでも、今週は夏祭りの期間だとかで、人出が多くなるそうだ。
そんな時期に店主が求人を出し、一行以外の従業員がいないのには理由があった。
この店には元々の従業員がいるのだが、店を閉めた後、新人のバイトの歓迎会にと飲みに出かけ、その居酒屋で出された料理に中ってしまったというのだ。
店主は急用で欠席し、集団食中毒の難を逃れることができたが、飲食店なので従業員たちは全快するまで仕事はさせられない。
経営者としてはこの書き入れ時に休業するのは避けたい――
ということで超短期のバイトを探すことになったのだった。
ここは、その手の店にしては食事のメニューが多い方らしく、店主は厨房で調理に専念し、悟空は洗い物、悟浄は接客、そして、八戒とは接客と厨房の手伝いを臨機応変にこなしていた。
タバコを吸うか新聞を読むかしかヒマの潰しようのない三蔵の目には、悟浄、八戒、の働きぶりが嫌でも入ってくる。
悟浄が女性客の対応しかしたがらないのや、八戒の人当たりの良さがサービス業向きなのはわかっていたことだが、が少し意外だった。
くるくるとよく働き、客にも丁寧に接するのは予測していたが、馴れ馴れしく声を掛けてくる男性客のあしらいが思いの外、上手かったのだ。
しかし、それでも、注文する時にわざわざを指名したり、給仕の時に仕事の後の予定を聞いてきたりする男たちにはムカつくし、そういう輩にも愛想よく応対するにもイラつく。
なんのアクションも起こさなくともチラチラとを盗み見する男の存在も面白くないし、そんなことまで気にしている自分自身が癪に触った。
人寄せパンダ扱いだけでも十分不愉快だったのに、更に不快なことが重なって、三蔵の機嫌は最悪の域になっている。
実は店主の狙い通り、三蔵目当てに店に入った女性客も少なくはなかったのだが、その剣呑すぎるオーラに怯まず声を掛ける勇者はいなかった。
三蔵が何本目かのタバコに火をつけた時、
「灰皿、お取替えしますね」
がそう声を掛け、新しい灰皿をテーブルの上に置いた。
吸殻が溜まっている灰皿を回収して次のテーブルに向かうをつい目で追ってしまう。
すると――
すっと視界に入った手がの尻に近づいたのだ。
三蔵は反射的にその手の主を睨み付けた。
それに気付いた男はギクリとした様子で伸ばしていた手を引っ込める。
「……フン」
三蔵は阻止できたことにほんの少しだけ気を良くして鼻を鳴らし、思った。
(……この手は使えるな)
その後、に不必要な会話を振ってくる男性客は激減した。
三蔵がに知られぬよう、そういった男たちをねめつけていたからだ。
最悪に不機嫌な三蔵がガンをとばすのだ。
その威力は絶大だった。
男たちは三蔵の殺気を帯びた視線に震え上がり、三蔵はそうすることでムシャクシャする気持ちを少しずつ発散させた。
悟浄と八戒はそのことに気付いていたが、特に何も言わなかった。
男性客が減って女性客が増えるのなら悟浄には好都合だったし、客の回転率が上がれば店の収入も上がるので八戒としても止めさせる理由がなかったのだ。
そうして、バイトの日々はなんとか平穏に過ぎ、一行は新しいカードと共に出発したのだった。
end