Silence is gold.  告白

最近、三蔵は気づいたことがあった。

近頃、はよく『好き』という言葉を口にする。

道端の花を見て『この花、好き』……
夕焼けの空を見上げて『この色、好き』……
店先のウィンドチャイムに『この音、好き』……
宿のロビーで焚かれている香に『こういう匂い、好き』……

別にそう気に留めもしないでいたのだが……

「八戒のこういうとこ、大好き〜!!」

このセリフは聞き流せなかった。

些細なことなのだ。頭ではわかっている。

宿に残って洗濯をしているの好きな作家の新刊を、八戒が買出しのついでに見つけて買って来た。

そのことを『嬉しい』と喜んで、『ありがとう』と礼を言って、そのついでのリップサービスのようなものだ。
深い意味などあるわけがない。

の気持ちが自分にあることもわかりきっている。

だが…………おもしろくない。

思い返してみれば、が三蔵に対して『好き』と言ったのは、あの満月の夜のあの時、一度きりだ。

求めれば拒まず、触れる指先や唇には艶かしく応えるくせに、その行為の最中でさえ、の口からその言葉を聞いたことは……

無い……

それまで平常値を示していた三蔵の機嫌のメーターは一気に不機嫌を振り切った。

当のはそんな三蔵の様子に気づくことなく洗濯の続きをしに行き、八戒は荷物の整理をするべく自分たちの部屋に戻った。

(……クソおもしろくねえ……)

一人残された三蔵の喫煙のペースは上がり、洗濯を終えて戻ったは白く煙った部屋に三蔵の不機嫌を知らされたが、その理由については皆目見当がつかないのだった……

その後も三蔵の機嫌の悪さは誰の目にも明らかだった。

全員が「触らぬ神に祟りなし」を決め込み、放置に徹したが、同室のの気は重かった。

こういう時は話しかけたりせずに自分のことだけをやっていればいいのだが、居心地の悪さは否めない。
原因に心当たりがないまま雨でもない時に不機嫌になられると、本当に弱ってしまう。

今も食事の後、一旦部屋に戻った三蔵は何も言わず、ふいっといなくなってしまった。

一人になれてホッとしたなんて思えない。
せっかく買ってもらった本も読む気になどなれない。
何をするでもなく、ただ考え込む。

(機嫌が悪くなったのって、宿に着いてからよね……?)

でも、三人は買出しに出掛けていたし、自分は洗濯をしていた。
洗濯から戻った時にはもう今の状態だった。

「……わかんないなぁ……」

わかるようになれたら……と思うのに、相手が三蔵なだけになかなか難しい。

答えの出ない問いを考え続け、思考がループし、泣きたいような気分になった頃、部屋のドアがノックされた。

「はい」

「僕です」

ノックをする前までどうしようかと考えていた八戒だったが、ドアを開けたの沈んだ雰囲気に、余計なお世話を決行することにした。

「ちょっと、話しませんか?」

顔に?マークを浮かべたを、星が綺麗だからと宿の裏手に誘った。

別館に繋がる渡り廊下の途中にテラス状に庭を眺められるスペースがあり、置いてあるベンチに並んで座った。

「ちょっと寒かったですかね? はい、どうぞ」

そこにあった自販機で買った缶コーヒーを渡す。

「ありがとう……本当に綺麗ね……」

そう言って夜空を見上げるは少し微笑んでいる。

「少しは気が紛れましたか?」

「あ……それで誘ってくれたんだ……」

「今日の三蔵はまた特に不機嫌ですから……」

「だね……」

「原因に心当たりは?」

「わかんない……」

八戒は内心ため息をついた。

(やっぱり……本当に何気なく言ったことだったんですね……)

そしておもむろに切り出す。

「なんとなく『アレが原因じゃないかなぁ』って思うことはあるんですけどね……」

「えーっ? なに?」

向き直って身を乗り出したに苦笑する。

「……買出しから帰って本を渡した時、僕になんて言ったか覚えてますか?」

「え‥っと……なんだろ? 『嬉しい』とか『ありがとう』とか……?」

は思い出そうとしているようだが、それ以上の言葉は出てこない。

「覚えてませんか? ……『大好き』とも言ってくれたんですよ」

「…………そんなこと、言った?」

「ええ」

うなずいた八戒にはまだ怪訝そうな顔をしている。

「あれは僕も『言う相手が違うでしょう?』って突っ込みを入れたくなりましたから」

言ってやるとはハッとしたような顔を向けた。

「……あ……あの……」

どうやら上手い言葉が見つからないらしい。
やはり気づかれているとは思っていなかったようだ。

「あまり口は出さないでおこうと思ってたんですけどね……」

そう前置きして続けた。

「自分の恋人が他の男に『大好き』なんて言ってるのを聞けば、三蔵じゃなくても不機嫌になりますよ」

がそのセリフを言った時、新聞をめくりかけていた三蔵の手が一瞬止まった事を八戒は見逃していなかった。

八戒の言葉を聞いたの顔がみるみる赤くなる。

困ったようにうつむいて、やがて小さな声で上目遣いに訊いてきた。

「………知ってた……の……?」

「まぁ、見てるとなんとなくわかりますから……」

宿の壁が薄いときには、あの声も聞こえてしまっていると知ったら、どんな顔をするだろう?

「ちゃんと三蔵にも『好き』って言ってます? 言ってもらってますか?」

もう一歩踏み込んだ八戒の質問に

「…………ちゃんと言ったのは……一度だけかもしんない……」

は動揺しながらも、正直に答えた。

「言葉にしないと伝わらないことってありますよ?」

「……うん……でも、言葉って枠があるでしょ?」

「枠?」

「うん。型にはめるっていうか、縛り付けるっていうか……
言葉じゃ表現しきれないものもあると思うの……気持ちって量れないでしょ?
『好き』じゃ足りない……『大好き』でも足りない……
『愛してる』でも、足りるかどうかわかんない……」

思いがけない言葉に八戒は言葉を失った。

「……それにたぶん、言っちゃったら、同じ言葉を返してもらわないと不安になる……
一度、言ってもらったら、ずっと言い続けてもらわなくちゃ我慢できなくなる……
そのうちきっと、『誰か他の人にも言ったことあるんじゃないかしら?』とか、『いつまで言ってもらえるのかしら?』とか、余計なこと考えて、いつか自滅しちゃう……
……そんな気がするの……
言葉に振り回されて、一番大事な気持ちを見失うなんて哀しいでしょ?
だから言うのが怖いのかな? 簡単に口にしたくないし……
だから、何も言わない三蔵でいいの……」

小さな声ではにかみながら、不器用に、しかし正直に綴られた、ある意味、最上最大級の告白……

八戒はため息をつくことしか出来なかった。

「変かな?」

「いいえ。愛されてますねえ、三蔵は……」

大きくて深い愛情。
こんなものを手に入れたら、たとえあの三蔵でも、手離すことなどできないだろう。

「……愛とか、恋とか……正直、よくわかんない……
先のことなんて想像つかないし……今はそばにいられるだけで嬉しいの……
三蔵は、言葉じゃなくて態度で表してくれるから……」

あの朴念仁が一体、いつ、そんな洒落た真似を?
訝しむ八戒には言葉を続ける。

「戦闘中はそばにいてくれるし、私の体調が良くない時は同じ部屋ではタバコは吸わないし……
落ち込んだ時や悩んでる時は、いつも、本当の事をはっきり言ってくれる三蔵に救われてる……」

そして、とても人には言えないけれど、触れてくる指や唇はいつも熱く、抱きしめる腕は力強い……

「それで、十分なの……
同じだけのものを返せてるかどうかは自信ないけどね」

頬を染めて照れくさそうに笑いながらうつむく横顔を、八戒は今までに見たどの笑顔よりも可愛いと思った。

「三蔵はの一番いい笑顔を独り占めしてるんですから、お釣りをもらってもいいくらいですよ」

「なにそれ?」

「三蔵といる時の、すごくいい笑顔をしてるんですよ」

「……自分じゃわかんないよ……」

ボソリとつぶやいたに八戒は笑ってしまった。

「三蔵を不機嫌にするのも上機嫌にするのも次第ですよ」

「…………上機嫌な三蔵って、想像すると怖い……」

「それもそうですねぇ」

二人で同時に吹き出して笑った後、

「風邪を引く前に部屋に戻りましょうか」

そう促してその場を後にした。

その際、に気づかれないように庭の一角に視線を送ったのは内緒の秘密。

(後はもう、勝手にしてください)

あてられっぱなしになってしまった八戒は少々バカバカしい気分だったが、の気鬱を晴らせたのだから良しとしようと自分に言い聞かせた。

降るような星空の下、宿の庭木に寄りかかっていた三蔵は、ため息をついてタバコに火を点けた。

あのまま部屋にいればにあたってしまっていただろう。
子供じみたやきもちを焼いていることなど知られたくはなかった。
だから、ここで頭を冷やしていたのだ。

聞こえた声で、と八戒が来たことを知った。
正直、かなりムカついた。
場を離れようと思ったが、話の内容にそれもできなくなってしまった。

そういえば、自分もその言葉を言ってやったことなどなかったな、と、初めて気づいた。

の本心をこういう形で知らされるのは不本意だったが、そうでなければ知ることなどできなかっただろう。

『雄弁は銀。沈黙は金』

そんな言葉があったことを思い出した。

立ち去る時、八戒はチラリとこちらに視線を向けた。

三蔵がいることを知っていて、わざわざこんなところで、あんな話をしたのだ。

(あのお節介が……)

さっきまでのイラつきが消えている。まんまとしてやられた。

短くなったタバコを落として足で踏み消す。

(『態度で表してくれる』……か……)

――今夜は寝かせてやれないかもしれない――

部屋に向かって歩きながら、そう思った。

end

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