stay  

月が明るい夜だった。

だから欲が出た。

――ちょっとだけなら……いいよね?――

――シュンッ!

かすかではあったが確かに発生した音を耳が拾って、三蔵は寝入り端のまどろみから引き戻された。

山越えの夜の森も、ジープでの野宿も、旅の中ではすでに当たり前になっていて、日中に受けた妖怪どもの襲撃すらよくある日常だ。
だから、こんなふうに目を覚ますのも珍しいことではない。
一瞬、残党かあるいは新たな敵襲かと警戒したが妖気、殺気の類は感じない。

しかし、何か違和感がある。

辺りを見回してそれに気づいた。

がいない。

後部席の真ん中で寝ているはずのの姿が見えないのだ。

長く狙われ続けているせいだろうか、いつもと違うことがある時は、不思議とよくわかる。
そして、この場合、何の事件性もないことも、が自分の意思でジープを離れただろうこともわかってしまうのだ。

今夜、この地点で休むことを決めたのは、水場に近かったからだ。
道の脇にある緩やかな傾斜の土手を降りて行けば、岩と砂利の川原に行き着く。
川原は広かったが土手の下方は石段になっていたので、川の水量によっては水没する範囲なのかもしれない。
今夜はそこで携帯食での食事を済ませたが、上流で雨でも降れば危険なので、寝る前に道まで戻ったのだった。

さっき聞こえたのは明らかに人から発せられた音で、恐らく、いや、きっと発生源はだろう。
しかも、周りが静かでなければ聞こえなかっただろうと思える少し距離を感じさせる響きだった。

(……面倒くせえな……)

どんな用があるのかは知らないが、を一人で出歩かせるとろくなことがない。
月明りにも目が慣れた。
息をひとつ吐き出して三蔵は重い腰を上げた。

音がした方へ足を進めながら、がジープを抜け出した理由を推理する。

ありがちなのはが言うところの『お花摘み』や、水浴びといったところだが、たまに、怪我や体調不良を隠そうとしている場合があるので油断はできない。

土手から川原へと降りると、夕食を撮った辺りの少し下流に何か動くものが見えた。
目を凝らして注視する。

川岸に転がった岩の上に座っている後ろ姿は見慣れたのものだ。

足音を立てないように距離を縮める。
近づくにつれの行動理由も類推から確定へと変化した。

にはの言い分もあるだろうが、叱っておく必要はありそうだ。
声をかけるタイミングを計っているとそれが聞こえた。

「っくしゅん!」

反射的に身体が動いた。

「おい」

突然の声に驚いた身体がビクッと大きく跳ねる。
はとっさにはだけていたシャツの前を手で合せ、首だけで振り向いた。

月明かりの中にも白く浮かび上がる姿に一瞬ギョッとしたけれど、見つけた顔に安心する。

「あ、三蔵……びっくりした」

「なにしてやがんだ」

「身体、拭いてたの。着替えもしたかったし。あと少しで終わるから」

も見つかったら叱られるだろうと思っていた。
だから一息でまくしたてて、三蔵の返事を待たずに作業を再開させた。

皆のいる所で身体を拭くのはお互いに気を使うし、ボディシート、ウエットシートの類は使い切ってしまっていたから、水場にいる今がチャンスだった。
川の水は冷たいけれど、一人でこっそり済ませておきたいからお湯を沸かす時間も手間も掛けられない。
今日は敵襲もあったし野宿も二日目だから、どうしても、少しでも、さっぱりしておきたかったのだ。

三蔵は、言ってやろうとしていた言葉を、半ばあきらめのため息に置き換えて吐き出した。

「……早くしろよ」

それだけ言って、タバコに火をつける。

が川の水を使って身体を洗ったり拭いたりしていることは、見つけると同時に察知できた。
夜中に一人で行動することや、気温の低い場所で身体を冷やすことの危険性を説いて叱るつもりだったが、はそういうことも全て承知した上で、一時的な安全の低下と心身の衛生を天秤にかけ、後者をとったのだ。
それは個人の価値観の問題であり、既に多くの敵を始末した直後であるという状況、ジープからの距離、自身の力量等、総合的に判断して、短時間ならば問題ないという結論に至ったのであろうことにも一定の理解は示せてしまうのだ。

ならば、既に二回もくしゃみをしているを、これ以上、無駄に川風に晒すのは避けた方がいい。
そう、三蔵を起こした最初の音は盛大なくしゃみだった。

「はーい」

嬉しそうな声で言ってシャツを脱ぎかけたが、はっとしたように手を止め、振り向いた。

「後ろ向いてて!」 

三蔵はタバコの煙を吐き出しながら身体を半回転させ、それに従った。

(気づいたか……だが、まだ甘いな)

一呼吸おいて、そっと、再度、身体を反転させる。
川の方を向いているはそれに気付かない。

青い月明りの中、背中の白さが目立った。
が腕を拭き、背中を拭き、脱いだものとは違うシャツに腕を通すところまで見守って、後ろを向く。

「お待たせ」

の声と足音が聞こえて、三蔵はこれが最初だというふうに振り向いた。
にも感付いているような様子はない。

その身体はすっかり冷え切ってしまっているだろうと懸念したが、は着替えた服の上に毛布を羽織っている。
野宿の時にはいつも使っているやつだ。
ちゃんと対策はしていたらしい。

「でも、なんで、私がここにいるって、わかったの?」

「でかいくしゃみしただろう? それで目が覚めた」

「え? ほんと? 起こしてごめんね」

そんな会話をしながら土手へと向かう。

「音の感じで、おおよその場所も予測できたな」

「……すごいね」

「すごかねえよ。お前がしそうなことなんざ、だいたい見当がつくってんだ」

それは受け取り方によっては『お前は単細胞だ』と言っているのも同然のセリフだったが

「それで、わざわざ様子を見に来てくれたの? ありがとう」

は別の解釈をしたらしい。

「……太平楽」

「ふふっ」

「何、笑ってんだ? 褒めてねえぞ?」

「……三蔵と二人だけで話すのって何日かぶりだから、なんか嬉しくって」

確かに、ここ二日は野宿だし、その前も一部屋に雑魚寝だったり野宿だったりした。
二人きりという状況は数日ぶりだ。
初めに起こされた時は億劫でしかなかったが、今は悪くない気分になっていた。

「……もう、ジープに戻っちゃう?」

がそう訊いてきたのは土手へ上がる石段に着いた時だった。

「用は済んだだろ?」

言ってやるとは俯いた。

「もう少し、二人でゆっくりしたいなぁ……とか……思っちゃうんだけど……」

遠慮がちに言ったが三蔵をふり仰ぐ。

「……だめ……?」

その小首を傾げた上目遣いの威力。

(……わかっててわざとやってんのか?)

故意か、無意識か。
いずれにしろ始末が悪いことに変わりはない。
どうせ、もう目は冴えてしまっているのだ。

「…………風邪ひいたら承知しねえぞ」

「はぁい」

語尾に音符でも付いていそうな声で返事をするの笑顔は月光を受けて一層明るい。

「あ、この石段、座るのに丁度よさそう」

などと言いながら、敷物代わりにさっき脱いだシャツを広げる姿を見ていると、不意に悪戯心が起きた。

「座るならこっちにしろ」

背後から三蔵に言われて

「え? どっち?」

振り向こうとしたら、羽織っている毛布を引っ張られて

「わ!」

身体がくるるっと回った弾みで、よたたっと足がふらついて

「ひゃ!」

尻もちをついてしまうと思ったのに

「へ?」

気が付いたら三蔵の膝の上に座っていた。
お姫様抱っこのように横向きに。

「え? ちょっ……なんで?」

降りようにも下手に動きすると石段の上に落ちてしまいそうで怖い。

「この方が互いに寒くない」

そう言いながら三蔵が広げた毛布に二人分の身体が包まれる。
が被っていたはずの毛布なのにいつの間にこんなことになっているのだろう? 
この数秒間の情報量が多すぎて、はついていけてない。

「そうかもだけど……これ、恥ずかしい」

見えなくても自分の顔が赤くなってるのがわかる。

「体温が上がって結構じゃねえか」

「変な汗かきそう」

予想外の展開にうろたえて、はもう何を言っているのか自分でもよくわからなくなっていた。

そんなの様子を見て三蔵は内心ほくそ笑む。
寝入ろうとしているところを起こされたのだ。

少しからかってやろうと思ったがまだ足りないくらいだ。

数日ぶりのの温もりと柔らかさが心地よい。

「少し黙ってろ」

三蔵はそう言って、至近距離にあるの唇を口で塞いだ。

「ん!」

小さく声を上げたが身じろぐ。

抱きしめる力を強め、口づけを深くするとの身体から力が抜けた。
羽織っていた毛布がずり下がったが、もう寒さなど感じなかった。

二人きりにすらなれなかったこの期間、三蔵もずっとお預けをくらっているのだ。
身体を拭いている時に襲い掛からなかっただけ、ましというものだ。
久々の感触をじっくり味わう。

深く、浅く、長く、短く、キスを繰り返すごとに、合間に漏れるの吐息が甘さを増していく。
三蔵は唇をの首筋へと滑らせた。

すると――

「それ以上はダメ」

少し掠れた小さな声だったが、はきっぱりと拒絶してきた。

「こんなとこじゃ、嫌」

首を横に振り三蔵を見つめるまっすぐなの目が強固な意思を伝えてくる。

「……ああ。そうだな……」

三蔵もそう了承した。
悪ノリが過ぎた自覚はある。
これくらいなら、まだ引き返せる。

が三蔵の膝から降り、三蔵も立ち上がる。三蔵に背を向けて、落ちた毛布と敷いていたシャツを拾い上げたがこちらを見ないまま言った。

「……次に泊まれた宿が、大部屋じゃなかったら……ね?」

月がきれいな夜だった。

湧き上がる欲は抑え込んだ。

――まとめて回収してやる。覚悟してろ――

end

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