Unconscious

ビュウゥと大きく鳴った風の音には顔を上げた。
眺めていた雑誌をローテーブルの上に置いて窓へ寄ると、曇った空の下、街路樹の枝が激しく揺れているのが見えた。

(吹いてるなぁ……明日は出発できるのかなあ?)

一昨日の午後に辿り着いたのは大きな河のそばにある町だった。
川幅が広すぎるせいで橋は架けられず、先に進むには渡し船に乗るしかないということだったが、強風の時には船が出せないとかで、足止めをくらっていた。

(退屈……やっぱり皆のとこに遊びに行かせてもらえばよかった……)

川を渡れないためにこの町への滞在を余儀なくされているのは一行だけではなかったので、宿になかなか空きがなかった。
ツインルームが一つだけとれたこの宿には三蔵とが泊まり、悟空、悟浄、八戒の三人は別の場所に宿泊している。
昼食後のまったりとした時間帯とはいえ、いい加減、暇を持て余している。だから三人のところに顔を出してみようかとも思うのだけれど、ためらってしまうのは全員に『部屋で大人しくしていろ』と、言われているからだ。

(皆、過保護だよね……もう元気なのに)

確かに、この町に着いた頃、ほんのちょっと熱があったけど、たぶんそれは、先に進めないことを知り、この町でゆっくりできそうだと少し気が緩んでしまったせいだし、現に、次の朝には平熱になっていた。
更に昨日一日、休ませてもらったから、今日はもう全然平気なのだ。
その証拠に、午前中、ちょっと買い物に行ったけど、今もこんなに元気だし。

それでも皆の言いつけを守っているのは、言うとおりにしておかないと、また皆に心配させてしまうからだ。
いつ出発できるかわからなくて困っている今、余計な心配事を増やさせてしまうのは避けたかった。

(三蔵、早く帰ってこないかなぁ……)

同室の三蔵は、宿のロビーへ行っている。
三蔵法師の滞在を聞きつけた町の重役たちが面会を求めて訪ねてきたのだ。

三蔵が部屋を出てからまだ三十分も経っていない。
はため息をついて窓辺から離れ、さっきまで座っていたソファに再び腰を降ろした。

宿で最後に残っていたこの一室は一応ツインだけれどそれほど広くない。
ベッド二つと壁際のカウンターテーブルの他に、ローテーブルと一人掛けのソファが二つ置いてあるけど、なんだかギュウギュウな印象で、ユニットバスのサイズから見ても、元は広めのシングルだったものを無理やりツインにしたのではないかと推察できた。

それなのに、三蔵がいないだけで広く感じてしまう。
三蔵がいたからといって、積極的に話し相手になってくれるわけでもなく、それぞれに新聞や雑誌を読んでいるだけなのだけど、いるのといないのでは気分的に大きく違うのだ。

はソファの背もたれに寄りかかって大きく息を吐いた。

(……帰ってきたら、お茶を淹れてあげよう……)

三蔵は、きっと、うんざりした気分で戻ってくるはずだ。

(お茶請けは……)

昨日、一日寝ていたのために八戒がいろいろと買ってきてくれていたはずだ。

(何がいいかな……?)

はいろいろと考えながら、三蔵の帰りを待った。

三蔵はひどく草臥れた気分で階段を上っていた。
川止めのせいで宿を探すのに苦労し、やっと見つけた部屋だったが、エレベーターなしの三階なら空いているのも納得というものだ。

法衣姿を見たという他の宿泊客が呑み屋で話題にしてくれやがったせいで面倒な来客まであったのは無視をしても良かったのだが、取り次いだこの宿の者には到着早々世話になっていたので、仕方なく対応した。
渡船の再開が未定なため滞在が長引くことも考えられるが、あまり騒ぎ立てるとよくないものを呼び寄せる可能性があると釘を刺したので、こんな訪問客はもうないだろう。

階段を上りきって部屋に戻るとはソファに身を預けて眠っていた。

(こんな所で寝やがって……また熱が出たらどうすんだ……)

大体、は自分の体調に無頓着すぎるのだ。

この町に着いてすぐ、適当な食堂に入り昼食をとった時から箸が進んでいなかった。
だが、普通の人間なら『食欲がない』と言う場面でもに言わせると『お腹が空いてないだけ』になってしまうのだ。

食後、宿を探し始めたところで川止めや空室が少ないことを知り、それぞれの宿泊先を見つけるまでに時間がかかったが、その間、の顔色は誰が見てもわかるほどに悪くなっていた。

しかし、の額に手を当てた悟浄が

「熱があるじゃねーか!」

と、指摘した時にも

「暑い日だなって思ってはいたけど……」

と、まるで自覚がなかったし、その後

「本当はもっと前から調子が悪かったんじゃないですか?」

「そういや、、メシもあんま食ってなかったよな?」

「具合が悪りぃんなら、ちゃんと言ってくんねーとだぞ?」

「寝込みでもするつもりか? 無理してんじゃねえよ」

四人がかりで詰め寄って、やっと

「…………ちょっと……頭痛はするの」

そう白状したものの

「天気が悪いせいだって思ってたの。あと寝不足かなって」

と、悪あがきをしていたのだ。

この宿にやっと空き部屋を見つけたのはチェックインにはまだ早い時間だったが、フロントの者はの体調不良を知るとすぐに部屋に通してくれ、更に夕食時には特別に粥を用意してくれた。
エレベーターがないことを除けば悪くない宿だ。

のちに他の三人も宿泊先を見つけられたようで、八戒は買い出しついでに、具合が良くない時にも食べられそうなものをいろいろと見繕って持ってきた。

宿に入って以後、食事の時以外は横になっていたの熱は、翌日の朝には下がっていた。

しかしその表情にはまだ疲れが見えていたので、寝ていろと厳命した。
事実、ベッドに入っている時間のほとんどを眠っていたので、身体が休養を欲していたことには間違いない。

今朝になってようやく通常に戻ったと思っていたのに、これだ。

きっと午前中に外出したせいで少し疲れてしまったのだろう。
しかし、おそらくは、昼食後は眠くなる、くらいにしか思わないのだ。

三蔵はため息をついて、そっとの額に手を当てた。

熱はない。
顔色も悪くはない。
心配するほどのことはないだろう。

(起こすとまた面倒なことになりそうだな……)

は朝からずっと退屈そうにしていた。
起こしたら、あの三人のところに遊びに行くとか言い出しかねない。

三蔵は再び、大きなため息をついた。

ふと目を覚まして、は自分が眠っていたことに気づいた。

まだ少しぼんやりしている目を指で擦ると、腕を動かした拍子に身体に掛かっていたものがずりさがった。

(……毛布? あれ?)

自分で持ってきた覚えなんてない。

「目が覚めたか?」

聞こえた声の方に目を向けると三蔵がいた。
法衣の上だけをはだけた姿で、ベッドに腰掛けて、眼鏡をかけ新聞を広げている。

「……ごめん、寝ちゃってた」

寝ぼけた声で言いながら、は毛布を掛けてくれたのが誰なのか察した。

「毛布、ありがとう」

「あぁ」

言ったお礼に返された言葉は短くぶっきらぼうだったけど、は嬉しかった。

(なんだかんだ言って、意外と面倒見いいんだよね)

普段は面倒くさがりなくせに、必要な時はちゃんと世話をしてくれる。

(A型だからかな?)

三蔵は、僧侶らしくない言動も多いけど、一方で、実は真面目な努力家だ。

「今、お茶を淹れるね」

立ち上がり、毛布を畳みながら言うと

「いや、茶はもういい」

そう返されてしまった。

『もう』ということは面談中にもお茶が用意されていたのだろう。
煩わしいことを片づけてきた三蔵を労ってあげたかったけど、断られてしまっては仕方ない。

「そっか……お疲れ様でした」

することがなくなった手持ち無沙汰に、畳んだ毛布を抱えてソファに座ると三蔵が何か言った。

『来い』と、言われた気がするけど、新聞を畳む音と同時だったのでよく聞き取れなかった。

「ん?」

思わず聞き返したけれど三蔵は何も言わなかった。
ただ、の顔を見ながら腰掛けたベッドを手で叩いた。
『ここに来い』と呼ぶように自分のすぐ横の部分をぽんぽんと。

(……え?……なにかやらかしたっけ? 二時間近く寝ちゃってたみたいけど、それで怒ってたりする?)

こういう時、とっさに叱られることを想像してしまうのはやむをえないだろう。

ためらっていると――

ぽんぽん

再度、促され、は重い腰をあげた。

いつの間にか眼鏡を外していた三蔵の顔に怒りは感じられないが、機嫌が良いふうにも見えない。
観念して三蔵の隣に座る。

「なに?」

そう問いかけるのと同時に三蔵の手が上がるのが見えた。

反射的にギュッと目を瞑ったのはハリセンでの一撃を覚悟したから。
そして――

次の瞬間感じたのは額の生え際を撫でられるような感触と、おでこに何かがこつんと当たった感覚だった。

(……んっ?)

予想外のことにフリーズしていると、

「熱はねえな」

その声と共に額に触れていたものが離れた。

(えっ‥と、それって、つまり……)

状況を把握したの顔が熱くなってくる。

小さい子の子守りをする時なんかにもよくやっていたことだ。
熱があるかどうかを確かめるために、おでこ同志をくっつけるのは。

でも、三蔵がそんなことしてくるなんて思ってもみなかった。

みるみる赤くなっていくの顔に三蔵の口角もあがる。
少しからかってやるだけのつもりだったのだが、こんなに意のままの反応をされるとは。

フンと鼻を鳴らされて、は、やっと三蔵の意図に気づいた。

まんまとひっかかったのが悔しい。
ドキドキして、恥ずかしくて、でも正直嬉しかったのに、それがおふざけだったのが悔しい。
それなのに油断すると顔が緩んでしまいそうなくらい嬉しく思ってしまっていることが悔しい。
悔しいけど嬉しい。
恥ずかしいけど嬉しい。
恥ずかしくてドキドキする。

真っ赤になって固まっているに三蔵の追撃は容赦なかった。

「なに赤くなってやがんだ。いつも、もっとすごいことしてるだろうが」

言ってやるとは両手で顔を覆って俯いてしまった。

「……ばかぁ……」

今のにとっては精一杯の憎まれ口なのだろうが、消え入りそうな声で言われても三蔵の勝ち誇った気分を増大させるだけだった。

「……これでまた熱が出たりしたら、三蔵のせいなんだからね?」

ほんの少しだけ顔をあげて、鼻から下は両手で覆ったままの上目遣いで吐き出されたの恨み言が、三蔵の中に優越感以外の感情を芽生えさせる。
このままでは押し倒してしまいそうで、理性を総動員させて自制した。

(……これで無意識なんだから、こいつは始末が悪いんだ)

はからずも三蔵に一矢を報いたことにが気づくことはなかった。

end

Postscript

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