離さない
宿の部屋で、は気持ちよく目覚めた。
まだ頭はボーッとしているけど、身体にはぐっすり眠れた後の爽快感があった。
伸びをして、寝返りを打ちながらベッドの中でゴロゴロ、モソモソと身体を動かしているとだんだん頭もはっきりしてくる。
時計を見て、随分早く目が覚めてしまったことを知った。
隣のベッドの三蔵はまだ寝ている。
昨夜、この町の特産だという地酒を、悟浄と八戒と三人で競うように浴びるほどに飲んで、早々に寝てしまったのだ。
(それまで平気な顔して歩いてたのにね)
部屋に戻るなり一言『眠い』とだけ言って、ベッドに倒れこみ、『法衣くらい脱いだら?』と声を掛けた時には、もう寝息を立てていた。
思い出して笑って、慌てて口を押さえた。
そっと三蔵の様子を見てみる。
(良かった。起きてない……)
声を立てないように少し笑って
(せっかくだから散歩でもするかな……?)
起こさないようにそっと部屋を出た。
昨日は見る時間がなかったけれど、宿の裏手に作られた広い庭はよく手入れされ、今の季節の多種多様な花々が咲き誇っている。
花の匂い、新緑の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、色とりどりの花を目で楽しみながら、ゆっくりとその中を歩く。
「いい季節ねえ」
呟いて見上げた空に、まるで吸い込まれそうだ。
早朝の晴れた空は淡い水色が清々しく、所々にフワフワとした雲が浮かぶ様子がイラストのように可愛く思えた。
そのまま見上げていると、身体が後方にグラリと揺れた。
上空の広い空間に長く意識を向けすぎたせいで、一瞬、平衡感覚がおかしくなってしまったのだ。
「ぅわっ!!」
声をあげ、腕を振り回しながら体勢をなんとかしようとしても間に合わない。
目をギュッと瞑ってしりもちをつく衝撃と痛みを覚悟した。
が、
(あれ?)
身体が空中で止まった。
「何、やってんだ。お前は……」
頭上から聞こえた声に、首を後ろにそらすと、紫の瞳と目が合った。
膝や腰が曲がってしりもちをつく寸前のところで、その人に後ろから羽交い絞めにされるような恰好で支えられていた。
「三蔵……」
そのタイミングの良さに驚いている間に、身体を持ち上げられ、立ち上がることが出来た。
転びそうになったドキドキがまだ少し残っている。
あのまましりもちをついていれば、その勢いのままに転がって、後頭部を強打していただろう。
「ありがと……あー、びっくりした!」
「驚いたのはこっちだ……
どうやったらこんなマヌケな転び方ができるんだか……」
呆れたようにため息をつく三蔵にも苦笑する。
「空、見てたの」
「空?」
「うん。よく晴れてきれいだなぁ、って……」
言いながら、また目線を上にするにつられて、三蔵もつい見上げてしまっていた。
そして、二人ほぼ同時にそれを感じた。
顔にかかった小さな水の雫。
気のせいかと思う間もなく、それは量と勢いを増やし、サアッと音を立てながら、二人を包んだ。
「雨!? 嘘! 空は青いし、日も差してるのに!!」
「ボサッとしてんじゃねえ! 濡れるだろうが!! 来い!」
三蔵に腕を掴まれて、一緒に庭の隅の東屋に駆け込んだ。
服についた水滴を払いながら
「『狐の嫁入り』だね」
と、言うと、
「呑気なこと言ってんじゃねえよ」
と、不機嫌そうに睨まれた。
でも、口調ほど機嫌が悪いわけじゃないのは、なんとなくわかる。
「天気雨だからすぐ止むよ。ほら、少し弱まってきた」
「…………」
返事をしない三蔵にちょっと意地悪をしたくなって言ってみた。
「ねえ、寝てたんじゃなかったの? なんで庭に来たの?」
散歩を楽しむだとか、花を観賞するだとか、そんなことが言い訳にはならないのはお互いにわかっている。
案の定、ムスッとしたまま口を開かない三蔵に、は堪えきれず笑い出した。
「何、笑ってやがる!?
てめえがフラフラしてるから、こんな目にあってんだろうが!」
(そのフラフラしてる私を追いかけて来たのは、どちらのどなた様?)
口に出してしまえば、本当に三蔵の機嫌は悪くなってしまうので、
「……はい。ごめんなさい」
とりあえず、謝っておくことにした。
ついニヤけてしまう顔は抑えられなかったけど……
少し待っていると雨が止んだので部屋に戻ることにした。
歩いている間、お互いに口は開かなかったけれど、水滴に輝きを増した花に囲まれながら、並んで歩いている事がには嬉しかった。
庭の出入り口まで来たところで、ふと振り返って、
「三蔵!」
は三蔵の袖を掴んで引き止めた。
振り返る愛しい人に
「見て!」
と、それを指差す。
花に溢れた庭園の向こうの青い空に、くっきりと鮮やかに浮かんだ七色のアーチ。
「虹よ……綺麗ね……」
「…………」
三蔵は何も言わなかったけれど、その瞳には青い空と虹が映っていた。
「……少し、見てていい……?」
「……勝手にしろ……」
ぶっきらぼうに言って、でも、その場に留まって付き合ってくれている、優しい意地っ張りの手を、はそっと握った。
ぴく、と動いた大きな手が、包むように握り返してくれる。
さっきも転びそうになった身体をしっかりと支えてくれた手。
濡れないように雨宿りの場へと連れて行ってくれた手。
この手があるから、自分は頑張れるのだ。
こうして虹を見たことを、きっと一生覚えているだろう。
そして、思った。
あの虹の向こうに三蔵たちの目指す目的地がある。
一緒に行くんだ、私も。
――だから、この手は離さない――
end