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――他に宿は無かったのか?――
立ったまま片手を腰に当てながらそんなことを思ってしまった三蔵の眉間には盛大な皺が寄っていた。
三蔵の眼前の他の四人はそんな三蔵の様子には気付かず、わいわいと賑やかにやっている。
さっき入って部屋を取ったばかりのこの宿では、この時期、宿泊客に浴衣を無料で貸し出すサービスをやっているとかで、四人ともその柄やサイズを選んでいるのだ。
(……くだらねえ)
三蔵はそんなサービスなど利用する気はなかったが、と八戒がやたら乗り気になり、甚平もあるとわかった途端、悟浄と悟空もその気になってしまったようだ。
(付き合ってられるか)
二部屋とれたのでいつものようにと同室だが、浴衣を選んだ後はそのまま着付けまでしてもらうことになっているらしい。
この上、更に着替えまで待ってなどいられない。
「……先に部屋に行くぞ」
そう声を掛けると『はーい』という返事は返ってきたが、声のみで、がこちらを向くことはなかった。
三蔵は部屋に向かって歩き出したが、思わず出てしまうため息は止められなかった。
しばらくして部屋にやってきたは髪も結い上げていて、ご機嫌だった。
淡い水色に白で桔梗の模様が散りばめてある浴衣は見た目にも涼やかで、付け襟と帯の紺色がいいアクセントとなって全体を引き締め、兵児帯の素材とリボン結びが柔らかな印象を与えている。
認めるのも癪だが、によく似合っていた。
だが、三蔵のボキャブラリーにはこういう場合に言うべき言葉は含まれていない。
「フン……よく暑くねえな」
三蔵はそれだけ言って、読んでいた新聞に目を戻した。
しかし、も三蔵のそういう反応は予測済みだったらしい。
「麻混の生地だから、思ってたよりずっと涼しいよ」
特に気にするふうでもなくそう反し、さっきまで着ていた服を荷物の横に置いた。
怒らせたり傷つけたりすることがなかったのは幸いと思うべきなのだろうが、面白くない気分になってしまうのは何故だろう?
「買い出しはこれからだから、今はこれで我慢してね」
はそう言いながら、たぶんロビーにあった自販機で買ったのであろう冷たい緑茶のミニペットボトルをテーブルの上に差し出し、三蔵は無言でそれを手に取った。
早速、キャップを開ける三蔵に
「じゃ、行って来ます」
と、声を掛け、は出掛けていった。
いつもとは違う下駄での足音がやけに耳に残っていた。
夕食を摂った宿の食堂では、見かけた他の宿泊客もほとんどが浴衣や甚平を着ていた。
いつものままの三蔵が変に浮いたりしなかったのは普段から法衣を着ているせいだろう。
しかし、それでも一行は密かに注目を集めていた。
悟空の着ている甚平は黄色地に茶色の三筋格子で、その向日葵のような明るさが目立っている。
黒地に赤のスラブチェックの甚平の袖を捲り上げノースリーブ状態にしている悟浄はいつも以上にガラが悪く見えるし、逆に八戒は深緑に白のかすれ縞の浴衣に浅緑の角帯で『どこの隠居だ?』と、突っ込みを入れたくなるほどに落ち着いていた。
そして、そんな見るからに暑苦しそうな連中の中で淡い色の浴衣をすっきりと着こなしているは、一幅の涼風のような爽やかさを辺りに振りまいていた。
元々、見目も悪くはないのだ。
浴衣美人として人目を引くのも無理はなかった。
だから、三蔵は面白くない。
人の注目を浴びれば浴びるほど、余計なトラブルを招く可能性は大きくなる。
ただでさえ不快指数が高いのだ。
これ以上、煩わしいことはごめんだ。
髪の色や法衣等、自分自身も十分目立つ姿をしていることは、すっかり棚の上にあげ、三蔵は不機嫌な顔で黙々と食事を続けていた。
三蔵の機嫌がやっと回復したのは、食事を終えて部屋に戻り、と二人きりになってからだった。
空調の効いた室内は快適で、二人でテーブルに座り、銘々、新聞を読んだり、読書をしたりのくつろいだ時間が三蔵の心を穏やかにしている。
入浴するまではそのままでいるつもりらしく、は今も浴衣姿だ。
本音を言えば、のこういう格好は新鮮で悪くない。
まあ、『他人の目に触れることがないのなら』という条件はつくのだが。
会話らしい会話もないひとときは、紙を捲る音が大きく聞こえるほど静かだった。
だから
「ん?」
と、言うの小さな声も三蔵の耳に届いた。
見ると、はテーブル上の一点を不思議そうな顔で見ている。
そちらに視線を移すと小さな黒い虫がいた。
「蛍? なんでこんなとこに?」
発光はしていないがその虫は、が呟いたとおり蛍のようだった。
「窓が開いてる時にでも入ってきたんだろう」
そう言うと三蔵は新聞に目を戻したが
「ドジな子ねえ……こんなとこにいたって仲間には会えないのに」
はそうため息をついた後、蛍を捕まえにかかった。
しかし、相手は本能的に逃げようとテーブルの上を這い回る。
「ちょっと! 大人しくしなさいよ!
捕まえたからって食べたりなんかしないから!」
虫に言葉が通じる訳などないのに、はそんなことを言いながら捕まえようと躍起になっている。
「ほっときゃいいだろ」
三蔵は言ったが、
「だって、逃がしてあげなきゃ可哀想じゃない。
成虫になってからは一、二週間しか生きられないのよ?
こんな部屋の中に迷い込んでないで自然の中にいなきゃ!」
はそう反して追跡を続ける。
らしい考え方だとは思うが、三蔵は手を貸す気にはなれなかった。
こんなところに入り込んでしまった時点で、その蛍は生存競争に負けているのだ。
自然に帰したところで子孫を残せるかどうかは怪しいだろう。
しかし、はむきになったように蛍を追い回し、ついに捕獲した。
「三蔵、お願い。ちょっと窓、開けて」
「あ?」
「私、手が塞がってるの」
は握り飯を作る時のように丸く組み合わせた両手の中に蛍を閉じ込めている。
確かにそれでは窓は開けられない。
三蔵は仕方なく立ち上がり、窓に向かった。
苦労して捕まえたの努力に免じて、それくらいはしてやってもいいかと思ったのだ。
少し開けた窓から腕を差し出したがそっと両手を開く。
いきなりの環境変化に戸惑っているかのようにじっとしていた蛍はゆっくりと動き出し、やがての指先から夜空へと飛び立った。
すぐには見失わなかったのは、蛍が飛びながら発光していたからだ。
窓を閉めた後も、はそれを見つめてその場から動かない。
三蔵もなんとなくそれに付き合って、二人で窓辺に立っていた。
「蛍の光って『目印』なんだってね。
光って、自分がそこにいることを仲間にアピールして、それで交配の相手を見つけるんだって。
あの子、ちゃんと、相手を見つけられるかな?」
どうやらはあの蛍に情のようなものがわいてしまったらしい。
「さあな。ドジな奴みてえだから難しいだろ」
「ふふっ。そうかもしんないなぁ」
笑みを浮かべ、細めた目で仄かな光を追いかけるの横顔は、光り飛ぶ蛍よりも三蔵の目を引く。
アップにした髪の後れ毛かかかるうなじが白い。
ここにキスの跡でもあれば、いいマーキングになっていただろうに……
最近、そういう機会がなかったことが悔やまれた。
「あ〜あ、見えなくなっちゃった」
ふわりふわりと飛んでいた光が視界からなくなり、は残念そうな声を出した。
「気が済んだか?」
「うん。手伝ってくれて、ありがとう」
の返事を聞いてテーブルに戻ろうと踏み出した三蔵だったが、ふと足を止めた。
背後でがクスリと笑ったのだ。
振り向いて訊く。
「なに笑ってんだよ?」
「ん? なんか、自分も蛍みたいだなって思って」
「どこがだよ?」
まさか、自分が光る存在だとでも言いたいのかと、三蔵の眉間には皺が寄ったが、の返事は違っていた。
「人混みの中を歩く時とかね、私、いつも、三蔵の頭を目印にしてついて行ってるの。
天気がいい日だと、三蔵の髪って光ってるみたいに見えるから……
だから、蛍みたいだなって」
少女趣味な発想に少々呆れたが、照れくさそうなの笑顔に悪戯心が起きた。
「そうか、なら――」
三蔵はそう言うと大きな歩幅で窓の傍まで戻り、その腕の中にを捕らえた。
「え? いきなりなに?」
驚いた声をあげたに言ってやる。
「部屋に迷い込んだ蛍は捕まえるんだろ?」
「……ばか」
照れ隠しの憎まれ口をきいて俯いたその首筋に、唇を落としてきつく吸い上げる。
「やっ! ちょっと!」
振り払うように頭を振られて唇を離し、三蔵は微かに口角をあげた。
夜の闇に光る蛍の光のように、の白いうなじに紅い跡が刻まれていた。
end