我侭
いつもと変わりのない夜だった。
宿に泊まることは長い旅の中で既に日常と化していたし、と同じ部屋なのも二人がそういう関係になってからは当たり前になっていた。
確かに雨が降りはしていたが、今までにも何度もあった事だ。
の態度もこういう時のそれと変わらない。
しかし――
その時の三蔵はいつにも増して不機嫌だった。
雨の日にこんな気分になるのはいつもの事だが、今夜はその度合いが酷い。
自分でも理由などわからない。
もしかすると、雨以外にも記憶を呼び起こすファクターがいくつかあり今夜はそれが複数重なっているのかもしれなかったが、その要因を探すどころか、そういう考えに至る思考などできる状態でもなかった。
にあたらずにいられるだけまだマシというものだろう。
だが、それもいつまでかわからない。
就寝にはまだ早い時間帯だったが、『寝るぞ』の一言で消灯を促した。
互いにベッドに入った暗い部屋の中に雨音だけが響き、心を重苦しく沈めていく。
無理やりに瞑った瞼の裏には師を亡くした夜のこと、一人で旅をしていた頃のことがフラッシュバックして、眠りを妨げる。
長い夜になりそうだと無意識にした舌打ちが雨音に掻き消された。
――指先一つの軽い力で引き金を引く。その度に一つずつ死体が増えていく。
命を奪うことは容易い。
たとえ奪った命の分、生きていくことが重くなるとしても、生きてやるのだ。
先に進む。行く手を阻む者は全て倒して。
また一人、目の前に敵。
突き出されたナイフを避け、その手首を掴んで引き倒す。
馬乗りになって、額に銃を突きつけて――
三蔵は、引き金に回していた指を引く直前で止めた。
――自分が今、身体で押さえつけて銃を向けている相手が誰なのかに気付いたから――
暗い室内のベッドの上。
その姿勢のまま固まってしまった三蔵の耳に雨の音だけが聞こえてくる。
危うく撃ち殺されてしまうところだった相手は、抵抗するでも、止めるでもなく、ただ静かに三蔵を見上げていた。
「……ごめん」
その人物――――が言い、その声をきっかけに三蔵はやっと銃を降ろした。
「何故、謝る?」
気付くのがあと少し遅かったら、そのまま発砲していたかもしれなかったのだ。
普通に考えれば謝らなければならないのは三蔵の方だろう。
「うなされてたから起こそうと思ったんだけど、余計なことだったかな? って……」
「……確かにな」
の上から身体を退かしながら、三蔵は忌々しげに呟いた。
が傍に寄ってきていなければ、その気配に過剰反応することもなかっただろう。
ただ悪夢にうなされているだけなら、今、こんな気分になることもなかった。
夢と現実の区別がつかなかった。
そんな間の抜けた過失でを撃ち殺してしまうところだったのだ。
なんと不甲斐ない。
何が『三蔵法師』だ。『最高僧』だ。
これでは、何も出来ず師を失ったあの夜と大差ないではないか。
「三蔵……」
「呼ぶな」
身体を起こしたに背中を向け、その心配そうな声を遮った。
今夜の自分はどうかしている。
口を開けば、必ずを傷つけてしまうだろう。
これ以上、みっともない真似はしたくない。
「とっとと寝ろ」
それは『早く自分のベッドへ戻れ』という意味で言ったこと。
そしてが動く気配も感じたのだが、しかし、結果は意に反していた。
背中に当たっている感触と体温。
は三蔵の背中に寄りかかって来たのだ。
僅かに残った理性で距離をとろうとしているのに、何故、そんなことをする?
「寄るな。今度こそ殺すかもしれねえぞ?」
自分の中で渦巻いているドロドロとした感情が沸点を迎えようとしている。
だから早く離れろと、そう脅したのに――
「構わないよ」
あろうことか、はそう言って抱きついてきた。
「前に言ったでしょ? 『三蔵になら殺されてもいい』って」
三蔵は振り向きざまにを押し倒した。
細い手首をベッドに縫い付けるように押さえ込んだ両手に力がこもる。
そうしてギリギリのところで抑えているのに!
「……いいよ……好きにして」
はそう目を閉じ、三蔵の堰は切れた。
もう、それがどういった種類のものかわからない。
ただ、煮えたぎり膨れ上がった激情がそこにあり、出口を求め、奔流となって溢れ出していた。
――ならば、望みどおりにしてやろう――
必死で抑えていたその最後のストッパーを外したのはだ。
文句など言わせない。
「死ぬようなめに遭わせてやるよ」
三蔵は、力任せにのシャツを引き裂いた――
は身体の力を抜いてされるがままになっていた。
今夜の三蔵がいつもと少し違うことには気付いていた。
でも、三蔵が何も言わないのなら何も訊くまいと、素知らぬ振りでいつもと同じようにしていたのだ。
だけど、銃を突きつけられた時、放ってはおけないと思った。
たとえ三蔵がそう望んでいても放っておくことはしたくないと。
弱みを見せない人、痛いと言わない人、強くありたいと自分を律している人。
それが『玄奘三蔵』という人なのだということはわかっている。
苦痛を抱えている姿を見て、何かしたいと思うのは
自分の独りよがりなお節介なのだということも。
強く掴まれて軋む骨の痛みも、噛み付かれて裂けそうになる肌の痛みも、三蔵の心の痛みが形を変えたものなのだと思えば耐えられた。
三蔵の苦しみを身体の痛みとして共有しているのだと思えば、むしろそれは喜びにも近かった。
ただ、こんなことをしても根本的な部分の解決には何の役にも立たないのだということだけが悲しかった。
――でも、それで少しでも、一時的にでも、三蔵の気が紛れるのならどうなってもいい――
――逃げでも八つ当たりでもいい――
――いつも強いばかりじゃいられないから、呑み込んでばかりじゃ息が詰まってしまうから――
こんなことしか出来ない自分の無力さが悔しいけれど、苦しんでいる三蔵を見ているだけなのは嫌だった。
は抗うことも、拒絶することもなく、三蔵の行為を受け入れ続けた……
正気に戻った時、三蔵は汗だくでに覆い被さるように倒れ込んでいた。
荒い息がなかなか治まらない。喉が渇き、全身に激しい疲労を感じる。
呼吸を繰り返しながら今夜のことを思い出した。
身体を起こして眼下に横たわるを見下ろした。
意識を失くしぐったりと四肢を投げ出したその姿は、とても恋人と一夜を過ごしたというものには見えなかった。
加減をせずに掴んだ腕や足には指の形が残っている。
いつもの赤い鬱血はなく、その代わりに噛み跡がそこかしこにあった。
汗やそれ以外の液体に塗れたその様は、暴力行為の被害に遭った者のそれ、そのものだ。
……酷い抱き方をしてしまった……
行為の最中、は一言も『嫌』とも『やめて』とも言わなかった。
けれどその顔には涙の跡が残っていて、三蔵の胸を痛ませた。
濁った感情の捌け口にして、痛めつけて、自分が汚したその身体を拭いてやりながら、三蔵は苦い後悔を噛み締める。
抱えて運んで、もう一つのベッドへ降ろした時、が目を開けた。
だが、かけてやる言葉が見つからない。
「……そんな顔しないで」
先に口を開いたのはだった。
一体、自分はどんな顔をしていたというのだろう?
「『好きにして』って言ったのは私よ?」
言いながら三蔵の肩に腕を回してきたは微笑んでいる。
あんなことをされて笑えるが三蔵にはわからなかった。
相変わらず言葉を紡げない三蔵の唇にの唇がそっと触れた。
今夜、初めての口付け。
まるで免罪符のようなそれが三蔵の後悔を溶かしていった。
か弱く動くの腕に促されるまま、同じベッドに入ると、はいつもとは逆に三蔵を抱き込んだ。
柔らかな感触が三蔵を包む。
触れた肌から伝わる鼓動は命の確かさ。
やがて聞こえてきた安らかな寝息。
それらが眠りを誘い、三蔵は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはの笑顔だけ。
少なくとも今夜は、もう悪い夢は見なくて済みそうだと薄くなっていく意識の中で感じた。
後で悔やむとわかっていても苛立ちをぶつけてしまう身勝手は、男の我侭。
それを受け入れて許す独善的な自己満足は、女の我侭。
end