戸惑い
庭木によりかかってタバコの煙を長く吐き出した三蔵は、フッと口元を緩めた。
隠れるようにしてタバコをふかしていた師の姿と、今の自分が重なったのだ。
同時に、先代の慶雲院大僧正のことも思い出した。
今夜の雨上がりの曇った夜空は綺麗でもないし、空気もまだ湿っているのだが、そんな事を思い出したのは、ここが寺だからだろう。
辿り着いた町で、昔の知り合いに会い、成り行きで、彼の寺で行われる法要に『三蔵法師』として出席することになってしまった。
三蔵にとっては煩わしいことでしかなかったが、断りきれなかったのは、昔、世話になった恩があったからだ。
慶雲院に落ち着く前の一人で旅をしていた頃、病に倒れて付近の寺に運び込まれた。
そこで自分の世話係になったのが、道達という修行僧で、今回、思わぬ再会を果たした相手だった。
面倒で窮屈だった法会も今日で終った。
明日の朝には滞在していた宿を引き払った四人がここまで来る予定で、そのまま西へと出発する。
短くなったタバコを口から指先に移したところで
「そんなところでこっそり一服か?」
不意に声を掛けられた。
振り向くと、三蔵に宛がわれた客間へと続く渡り廊下に道達が立っている。
「今、玄奘殿のところへ行こうとしてたとこだ。
どうだ?」
言いながら道達が持ち上げた酒瓶を見て、三蔵は持っていたタバコを捨てた。
まだ細く煙をあげるそれを足で揉み消し
「つまみもあるんだろうな?」
訊きながらそちらへと向かった。
部屋に入ってそれぞれに座ると、道達はまず三蔵が手にした杯に般若湯を注ぎ、突然のいささか無茶な願いをきいてもらえた事への礼を述べた。
それから、『三蔵法師』の臨席を賜ったことで『素晴らしい法要になった』だの『皆も喜んでいた』だの『うるさ方も大人しかった』だの、おそらくは本音半分おだて半分であろう言葉をひとしきり並べ、三蔵はそれを適当な相槌であしらった。
普段はもっと煩い連中に囲まれているし、数日振りに飲む酒は思いのほか上物で美味い。
少々の雑音を聞き流すのは苦ではなかった。
互いに杯を傾けるうちに、道達の口調は遠慮のないものになっていった。
きっと大仕事が無事に済んで気が緩み、酔いの回りが速いのだろう。
その中で三蔵は繰り返し『変わった』と言われた。
どうやら『供を連れている』ということが道達にとっては意外だったらしい。
『あの頃は手負いの獣って感じで他人を信用しないように見えた』とか『「近寄るな!」ってオーラが出てるのは同じだけど』とか『人とつるむタイプには見えなかった』とかの言葉の後に『でも、今は、お供付きで旅をしてるんだよな』と、続くのだ。
「事情があるにせよ、女連れってのにも驚いたなあ。
でも、あんな美人が一緒だったら旅も楽しいだろう?」
「面倒なだけだ」
「『面倒』ねえ……案外、手、つけてたりするんじゃないのか?」
いきなり図星をつかれて一瞬ヒヤリとしたが、道達が冗談のつもりで言っていることはわかる。
「それが『住職』の言うことか?」
呆れたような口調で、そう受け流した。
「固いことは抜きにしてくれよ。
昔から美少年だったけど、その見た目だったら女も放っとかないって」
「……あんた、酔ってるだろう?」
「ああ、酔ってる。玄奘殿と酒が飲めるなんて嬉しくてさ。
尊大な態度の割に生真面目そうな印象もあったのに、酒もタバコもやるようになってるんだもんなあ」
「……変わらないものなんてねえさ」
そう返して杯をあおった三蔵は、今、発したばかりの言葉を自分の中で反芻した。
――変わらないものなどない――
実のところ、今回、久々に一人になったことで、三蔵自身、自分の変化を感じていた。
日中は法要のあれこれに集中しているので意識することはなかったが、夜、自室に戻った時は違和感を覚えずにいられなかった。
何かが違う。
何か物足りない。
そんな欠落感が付き纏って落ち着かず、どうにも居心地が悪い。
以前はそんなことはなかったし、静かな時間を過ごすことを好むのは変わらないはずなのに……
無意識のうちに、自分の中の何かが変わっていた。
そのことには多少の戸惑いを禁じえないし、あの連中によってもたらされた変化だと思うと、どうにも癪だった。
だが、それも今夜までだ。
明日にはまた、あの煩さの中に戻る。
「あんたは変わらねえな」
「そうか? 少なくとも見た目は変わってると思うんだが」
「確かに髪は伸びたな」
「あの頃は修行中だったからな。
俺、頭の形が悪くてさ。剃髪だと様にならないんだよ」
「見事なほどの絶壁頭だったと記憶しているが?」
「忘れてくれ!」
そんな会話から話題は思い出話が主になっていった。
酔うと饒舌になるらしい彼の話に相槌をうつ程度の会話だったが、不思議と煩わしくはなかった。
昔、世話になった当時から『最高僧』として奉るようなことのない彼の態度は気楽で、その人柄も嫌いではなかったし、これは彼が用意したささやかな惜別のひと時だとわかっていたからだ。
面倒なことに巻き込まれはしたが、彼と再会できたのは悪くなかった。
酒瓶が空になったところで道達は辞去していき、一人になった三蔵はタバコに火をつけた。
煙と共に夜の静けさを吸い込む。
飲んだ割に酔っていないのは、いろいろと考えをめぐらせていたせいだろう。
――何物にも捕らわれず 縛られず ただあるがままに 己を生きる――
ならば、自分自身の変化も、そのまま受け入れるだけだ……
一度、退室した道達が再び部屋を訪ねたのは、三蔵がゆっくりと味わったタバコを揉み消した頃だった。
なんでも、三蔵に面会を求めている来訪者がいるという。
「確か『八戒』って言ったか? 玄奘殿のお供にいた片眼鏡の男だ」
聞くと、『緊急事態が起きたが、デリケートな内容を含むことなので詳細は三蔵本人に直接話したい』とのこと。
妖怪の襲撃だとしたら、あの三人だけでも対応はできるだろうし、その最中にわざわざここまで迎えに来るなんてことはしないだろう。
『デリケートな内容』というのも気になり、道達の案内で八戒のもとへと向かった。
八戒は寺の玄関の土間に立って待っており、道達に会釈した後、三蔵に視線を移した。
「こんな時間にすみません。のことで困った事態になりまして」
「『困った事態』?」
言いにくそうに切り出した八戒の言葉を三蔵はおうむ返しに聞き返してしまった。
八戒も三蔵の頭をよぎったことを察したらしく、
「あ、いえ、力を使ったとかではないんです」
慌てたようにそれを否定し、その後で続けた。
「違うんですが、三蔵にしか対処できないと……
本人は『放っておいてくれていい』と言ってますが、は被害者の立場ですし、苦しそうで可哀想で……」
八戒の説明は歯切れが悪く、肝心なところをぼかしているようでわかりにくい。
一般的には非常識ととられても仕方のない時間帯の来訪で、何事かと密かに注目を集めているのだからはっきり言えないのだろうということは理解できる。
「町に戻ろう」
三蔵はその言葉で次の行動を決めたことを伝えた。
ここで人払いをして事情を聞くよりもそのほうが速い。
用件は済み、道達とも話せた。
ここに留まる必要はもうない。
そして、振り返り、後方に控えていた道達に予定より早くこの場で退去することを告げた。
わけありだと察して引き止めることもせず、丁寧な別れの挨拶と共に見送ってくれた道達が実はあまり酔っていなかったのだということに気付いたのはジープが動き出してからだった。
とのことを勘付かれていたのだと思い至ったが、今更、後の祭りだ。
それに彼なら自分一人の胸に納めていてくれるだろう。
それよりも、今、気にしなければならないのはのことだ。
ハンドルを握りながらの八戒の話が進むにつれ、三蔵の眉間の皺は深くなっていた。
宿の従業員が相手ということで油断はあったのだろうが、まんまと一服盛られてしまうとは……
眠らされただけの悟空と悟浄は放っておいて構わないだろうが、確かにのケースは厄介だ。
八戒が自分を迎えに来たのも致し方ないという判断だったのだろう。
宿に着くと、八戒は三蔵をの部屋へと案内し、『後はお願いします』という言葉を残して自室へと戻った。
三蔵は軽くため息をついて、その部屋のドアを開けた。
踏み込んだ室内は真っ暗ではなかった。
どうやらベッドサイドのランプが点いているらしい。
仄かな明かりの中で、ベッドの上のシーツの塊が目に入った。
が身体を丸めてシーツに包まっているようだ。
(……だから、コイツから目を離すとロクなことがないってんだ……)
八戒の言っていた『緊急事態』『デリケートな内容』『三蔵にしか対処できない』等の台詞の核心が『媚薬の類を飲まされてしまい、中和剤もない』という事実だった。
頭からシーツを被ったは、三蔵が来たことにもまだ気付いていないらしい。
苦しげな荒い呼吸の間にすすり泣きのような声も聞こえてくる。
三蔵は当惑し、出そうになったため息をかみ殺した。
――で、これを俺にどうしろって言うんだ?――
end