空
「ー、いるー?」
その日、悟空はちょっとした頼み事があっての部屋を訪ねた。
買出しは宿に入る前に済んでいたし、外に洗濯物も干してあった。
出掛けていなければいいんだけど……と、少しだけ開けたドアから覗いた部屋。
「いるよー」
返事が聞こえたのはドアの死角の方向。
お茶を淹れようとしていたというは悟空を部屋に招き入れ、悟空にもお茶を出してくれた。
「あのさ、ちょっとお願いがあんだけど」
互いに茶をすすった後で、悟空は切り出した。
「うん、何?」
訊いてくるの小首をかしげる何気ない仕草がなんだか可愛いと思った。
「これなんだけどさ」
言いながら悟空は左手を差し出して見せた。
「庭でジープと追っかけっこしてたら、生垣の枝に引っ掛けてビリッってやっちゃって……」
いつもボタンは留めていない袖口から続くシャツの袖底が10センチほど縫い目に沿って裂けていた。
戦闘で破れたのなら誰も何も言わないのだけど、遊んでいて……だったら、少なくとも八戒には小言を言われる。
だから、こっそりのところに来たのだ。
「直せる?」
訊ねる声が少々情けないものになってしまったのも仕方なかった。
そんな悟空の様子にクスッと笑って袖の様子を見たは
「多分、大丈夫。ちょっとシャツ脱いで」
そう請け負い、悟空が脱ぐ間に小さなソーイングセットを取り出した。
「良かった〜! お願い」
「前の街で買ったばかりのこれが役に立つね」
シャツを受け取り、早速、糸を通した針を運び始めたを悟空はなんだか新鮮な気分で見ていた。
洗い物や掃除や料理をしているなら何度も見ているけど、縫い物をしているを見るのは初めてだったからかもしれない。
「って器用なんだな。何でもできるじゃん」
「そんなことないよ。昔は何にも出来なかったし、料理も裁縫も必要に迫られて何度も失敗しながら覚えたのよ」
「『必要に迫られて』って?」
「一人で暮らし始めたのってまだ子供の頃だから、どんなに頑張っても収入なんてたかが知れてるでしょ?」
それからは針を動かしながら、一人で暮らしていた頃の事を話し始めた。
食費を抑えるのは自炊が一番だったこと。
自給自足を目指して庭に畑を作ったこと。
そう度々新しい服を買うわけにはいかなかったから母親や兄の服を手直しして着たりしていたこと。
家具や家の簡単な修理の為に日曜大工の道具の使い方を覚えたこと。
大半は失敗談であり、それぞれに苦労しながらの事だったのだろうけど、は懐かしそうに楽しそうに面白おかしく聞かせてくれた。
「でも、いいよな、懐かしく思い出せる記憶があるって」
何気なく感想を述べた悟空だったが、は
「あ……ごめん……調子に乗って話しすぎたね」
と、しおれてしまった。
きっと、記憶を無くしている悟空への配慮を欠いていたと反省しているのだろう。
しかし、正直、悟空自身、普段は記憶喪失の事は忘れているし、もちろんを責めるつもりも毛頭なかった。
「ああっ! ちげーよ! そんな意味じゃなくて!」
悟空は慌ててフォローに回った。
「の話を聞けるのは俺も嬉しいしさ!
そんな風に笑って話せるようになってよかったなっていうか!
、あんまり昔の事話さないから話したくないくらい辛いことのが多かったのかなって思ってて、だから、そうじゃなくてホッとしたし!
そんで、えっと……あー、何言いたいのかわかんなくなってきたぁっ!!」
必死で口を動かすのだけど、頭で考える間もなく喋っているので、上手いセリフなんて出て来ない。
でも、
「ありがとう、悟空」
はそう言って笑ってくれた。
「……へへっ」
なんとなく照れくさくなって、悟空は湯のみに残っていたすっかり冷めてしまっている茶を飲み干した。
「俺のことなんて気にしないでくれよ。
俺だって普段は忘れてるし、三蔵と会ってからの記憶はちゃんとあるんだしさ」
そんな事でに腫れ物に触るような態度を取られるのなんて嫌だ。
悟空はまっすぐにを見つめながら言った。
「うん」
と、笑顔で頷いたが、少し言いづらそうに言葉を続けた。
「あの‥ね、前からちょっと気になってた事があるんだけど、ついでに訊いていい?」
「ん? 何?」
「『悟空』って名前は三蔵がつけたの?」
当然といえば当然かもしれない疑問だった。
「ああ、ううん。名前だけは覚えてた」
「そっか……良かったね」
は安心したように言って笑った。
「こんないい名前つけてくれる人が傍にいたんだね」
「え?」
「『悟空』ってすごくいい名前だと思うよ」
「そう?」
「うん。『空』って字は『そら』とか『から』って読むけど、一字で『くう』って読むと『目に見えないもの』って意味もあるの」
だから『悟空』は『目に見えないものを悟る』という意味なのだと、は言ってくれた。
そんな事を言ってくれた人なんて今までいなかったし、名前の意味を考えた事もなかったから、嬉しかったし照れくさかった。
「そうなんだぁ……えへへっ」
「仏教にも『五蘊皆空』って教えがあってね。
簡単に言うと、『世の中の物質も精神も全てが空である』って事なんだけど……」
それからは、物質も人も動物も世の中にある全ては、やがていつか形をなくして目には見えない状態になってしまうけれど、因縁によってその『空』から再び新しく全てが生まれてくる――
そういう教えなのだとわかりやすく説明してくれた。
「こうして生きてても、大事な物は目には見えないことが多いからね」
の言葉に
「そうだな」
と、悟空も同意した。
例えば、心とか、優しさとか、愛情とか、そういったものは目には見えない。
自分は優しさのつもりだったのにお節介と受け取られる事もあるだろうし、愛していると言っても言葉の通じない相手だったらわかってもらえない。
「ここで感じるだけだよな」
手で胸を押さえながら言うと、は優しくにっこりと笑った。
「悟空は名前負けしてないね」
「どーゆう意味?」
「んー、わかんないんなら、内緒」
「えーっ! 教えてくれよー!」
悪戯っぽく笑うに悟空は思わず口を尖らせたが、は
「ほら、出来た!」
と、繕い終えた袖を見せて話を変えてきた。
「まだ訊いてくるなら、シャツ返してやんないよ」
「ずっりー!!」
結局、シャツの奪い合いをしてじゃれているうちに誤魔化されてしまった事に悟空が気付いたのはそのずっと後だった。
夜。
風呂から出た悟空は昼間着ていたシャツを手にとって見てみた。
破れていたところは裏表にひっくり返さないと修理したことがわからないくらい、キレイに細かく縫われている。
「……すっごく丁寧に縫ってくれたんだな……」
そして、がいろいろと話してくれた事を思い出した。
『空』がどうのこうのという話は、わかったようなわからないような微妙な感じだけれど、名前を褒めてもらえたことが嬉しかった。
五行山に閉じ込められる前の記憶はない。
でも、名前はちゃんと覚えていた。
あと、何かすごく守りたいものがあったのも覚えてる。
それが何なのかは思い出せないけど……
『こんないい名前つけてくれる人が傍にいたんだね』
いつか……いつか、思い出せたらいいな……
end