Devotion
「痛てて……」
部屋の中に入った悟浄は顔をしかめながら脇腹を押さえた。
その手には濡れた感覚。
椅子に座って見てみるとシャツには赤い染みが広がっていた。
(よけたつもりだったんだけどなー)
天を仰いでため息を付いたら、傷がズキンと痛んだ。
――そもそも今日は一行にとってあまりツイてない日だった。
ここ数日、雨混じりの天候の中での野宿が続いていた。
三蔵の機嫌は底辺部を推移するだけで決して上向きにはならなかったし、八戒はその間に風邪を拾ってしまったようで調子が悪そうだった。
夜になって着いた町では宿を探すのに苦労し、遅い食事を摂るために入った食堂の味はなんとも微妙だった。
質より量の悟空はそれでも食べられさえすれば良かったのだろうけれど、オーダーストップの時間になってしまい、いつもの半分も食べることができなかったし、とりあえず飲めればいいと悟浄が頼んだビールはろくに冷えておらず生温かった。
は八戒の体調を気遣ったり他の連中をなだめたりで、とても落ち着いて食事をするどころではなかったし、全員がなんとなく疲れていた。
こんな日はとっとと寝てしまうに限ると宿に向かっていた時、派手な物音や悲鳴が聞こえてきたのだ。
駆けつけてみると盗賊らしい妖怪たちが付近の家々を荒らしているところだった。
一行を狙ってやってきたのではないらしいが、被害が出ているのを目の当たりにした上、先方が武器を手に向かってくるのなら相手をしてやらねばならない。
ウザい事この上ない一日の締めくくりだった。
妖怪たちは雑魚レベルの者ばかりですぐに片付けることは出来たものの、被害を受けた住民の中には数人の負傷者が出てしまっていた。
風邪気味のくせに気功で治療をしてやる八戒の体調は気にならなくもない。
しかし、言っても聞きやしないだろうこともわかっている。
悟浄はタバコを取り出して、一仕事終えた後の一服を味わい、それに気付いた。
入り口を破られた雑貨屋らしい暗い店内。
その奥に誰かがうずくまっていた。
「おい、あんた」
中に入って声を掛けたのはケガでもしているのではないかと思ったからだったのだが……
いきなり視界に入ってきたのはナイフの切っ先だった。
咄嗟に避けて、まだ妖怪が残っていたのかと身構えたが、どうも違うようだ。
そこにいたのは十五、六といった年頃の人間の女の子で、ナイフを握っている両手だけでなく全身が震えている。
たぶん、突然の妖怪の襲撃で冷静な判断力を失い、悟浄の事も敵だと思ってしまっているのだろう。
「おいおい、女の子が危ないだろ?」
努めて明るく軽く言ったけれど、余裕綽々の敵にからかわれているとでも思ったのか、その子は半狂乱になってますますナイフを振り回してきた。
逆効果になってしまったようだ。
正面から身体ごとぶつかる勢いできた一突きをかわして、女の子を腕の中に捕らえた悟浄はそのまま強く抱きしめた。
「落ち着けって。俺は敵じゃない。
襲ってきた連中は皆やっつけたから。もう大丈夫だから。もう怖がんなくったっていーから」
ゆっくり、優しく言い聞かせてやると、女の子の体から力が抜け、放心したようにその場に座り込んだ。
泣き出してしまったその子をに任せ、その後は怪我人の搬送の手伝いにまわった。
事態が一応の収拾をみせ、宿に戻ったのがついさっき――
かわしたつもりだった一撃が実は掠ってしまっていたことは誰にも言わなかった。
大したケガじゃない。
上着に隠れる位置だから気付かれなかったし、今夜は全員が一人部屋だ。
黙っていれば隠し通せる。そう思っていた。
しかし、飲酒をした後だった事や、その後も動き回っていた事もあって、結構出血してしまっているようだ。
血さえ止まればなんとかなるだろう、と、タオルで押さえていたら部屋のドアがノックされた。
「私ー。入るよ?」
いつもなら悟浄の返事を待つはずのが言うなりドアを開けて、悟浄は血で汚れたタオルも傷口も隠すことはできなかった。
部屋に一歩入ったは悟浄の様子を見て足を止める。
「えーと、あのよ……」
上手いごまかしの文句を探す悟浄が言葉を続ける前には小さくため息をついて言った。
「やっぱりケガしてたんだ」
「へ?」
気付かれたとは思ってなかったのでマヌケな声が出てしまう。
「すれ違った時にね、なんかチラッと赤いものが見えた気がしたの。
どうしても気になったから来てみたら案の定なんだもの。
なんで言わなかったの? ……いいわ。とにかく八戒、呼んでくるから」
「待て! 呼ぶな!!」
部屋を出ようとするを悟浄は慌てて呼び止めた。
「俺がドジふんだだけなんだし……掠り傷だ」
振り向いたは悟浄の顔と傷口を交互に眺め、あきらめたように再びため息をついた。
「まあ……そうね……悟浄の気持ちもわかるけど……」
八戒も風邪を引いている身体で、気功砲をぶっ放したりケガ人の治療をしたりしているのだ。
これ以上、他人に気を送れば本人が倒れてしまうかもしれない。
悟浄がそれを心配していることにも気付いたのだ。
「でも、手当てはしとかなくちゃでしょ?
宿から救急箱、借りてくるから。そのまま止血しててね」
言葉のとおりに救急箱を借りてきたは、丁寧に傷口を消毒して薬を塗ってくれた。
包帯を巻く時、が抱きつくような形になるのがなんとなく嬉しくて、ニヤけそうになる顔を抑えるのに苦労した。
「傷は思ったほど深くはなかったけど出血は多かったんだから安静にして」
ひととおりの処置が済んだ後は強制的にベッドに送られた。
自分もそれなりに疲れているだろうに傷の手当てをしたり身体をふいてくれたりとかいがいく世話をしてくれた事を思うと『大袈裟だ』と反論する気にもなれず、大人しく横になった。
すぐに眠くなったのは出血して貧血気味なせいなのか、飲んだ鎮痛剤のせいなのか……
が傍にいてくれるのが素直に嬉しくて、悟浄は穏やかな気持ちでまどろんでいった。
ふと目を覚まして時計を見ると12時を少し回った頃だった。
時間的にはそんなに眠ったわけではないのに、やけにすっきりとしているのは、部屋にまだがいてくれたからだろうか?
「まだいたのか?」
声を掛けるとは悟浄の顔を見て微笑んだ。
「眠ったら、顔色、良くなったね」
心配してついていてくれたのだと思うと悟浄は自然に笑顔を返していた。
「もう、部屋に戻って寝てもいいぞ?」
野宿の後でやっと宿に泊まれるというのに、はまだ風呂にも入っていないようだ。
「そう? じゃあ、これが済んだらね」
そう返事をするは手に糸のついた針と悟浄のシャツを持っている。
汚れていた部分にもう血の染みはない。
洗って……
こんなに速く乾くわけはないから多分また宿からアイロンでも借りて……
今はナイフが掠って破れたところを繕って……
(……自分のことは後回し……か……)
悟浄がそんなふうに思っているところで、更には言うのだ。
「悟浄が寝てる間にちょっと八戒の様子も見に行ってみたの。
疲れてはいるみたいだったけど、風邪が酷くなったりはしてないみたい。
風邪薬も飲んだって言ってたし、一応、私も生姜湯、持ってったし……
朝になって、八戒の体調が良くなってたら、治療してもらおうね」
「お前さぁ……」
悟浄は口を開いたけれど、その次の言葉はなかなか出てこなかった。
崩れがちな天気の中で野宿が続いていたのだ。
そんな中で機嫌の悪い三蔵をなだめたり、風邪気味の八戒にあれこれ気を遣ったりしていたのだ。
やっとついた町でもゆっくり食事をすることはできなかったのだ。
その後で妖怪たちと一戦交えたのだ。
疲れているだろう。
早く休みたいだろう。
なのに……
がそういう人間なのだとは知っているけれど、改めて問いたくなってしまう。
「……なんで、そんなに頑張んの?」
針を動かしていたは手を止めて
「なんで、ケガしたこと黙ってたの?」
逆に訊き返してきた。
「そらぁ……」
あれくらいのことでケガをしたなんて知られたくなかった。
八戒の体調のことも気になった。
この程度のケガならすぐ治る。
に心配や世話を掛けたくなかった。
理由はいろいろあるけれど、口にするのはみっともない。
もごもごと口ごもる悟浄にはにっこり笑った。
「私も同じよ。たぶんね」
「どこがよ? ぜんぜん逆じゃね?」
自分のはただのやせ我慢だが、のは無償の献身だ。
「表れた行動としては逆かもしんないけど、その原動力になった気持ちは似てるんじゃない?」
言いながら見つめられて、思わず視線を逸らしてしまったのは、隠したい心の奥まで見通されてしまうような気がしたから。
そしてそれは、の言葉を肯定することにもなっていた。
――誰かを気遣って――
――誰かを思って――
――そのためなら、少しくらい自分にしわ寄せが来てもいいと――
悟浄は何も言えなくなってしまった。
逸らしたままの目の端でがクスッと笑った気配がした。
「なぁんにも言わないとこが悟浄らしいよね」
はそう言って縫い物の続きにとりかかり、悟浄はため息をついて天井を見上げた。
傷口は痛まなかったけれど、心は痛痒いようなくすぐったいような複雑な気分だった。
やがて作業を終えたが椅子から立ち上がった。
「シャツ、ここに置いとくね」
「ああ。今夜は悪かったな」
「そう思うなら、早く良くなってね」
「おう。お前もゆっくり休めよ」
「うん……あ! そうだ!」
「どした?」
何かを思いついたか思い出したかしたらしいはまたベッドの傍に寄ってきた。
「誕生日おめでとう」
「え?」
あんまり突然だったから、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「12時過ぎてるからもう9日でしょ? おめでとう」
「あー、忘れてたわ! ……サンキュ」
「明日、皆でお祝いしようね」
「『お祝い』なら、今、ここでチュ――」
ペチ!
調子に乗っていたら、言い切る前に額を軽くはたかれてしまった。
持ち上げていた頭が枕に沈む。
「ケガ人は大人しく寝てなさい」
「……ハイ」
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
が出て行った後も、額には感触が残っていた。
ものではなかったけれど、それでも悪い気はしなかった。
禁忌とされる自分が生まれた日を覚えていてくれた。
誰よりも先に祝福してくれた。
隠していたケガに気付いてくれた。
細やかに世話を焼いてくれた。
――他の誰でもなく、君が――
悪役になりきれず貧乏クジを引いてしまうことも多い自分だけれど、報われないことも多いけれど、たまにこんなことがあるなら、それは――
何よりのご褒美――
end