only a little
その時、八戒は慎重に宿の非常階段を上っていた。
月が明るいのでうっかり足を滑らせることはないだろうけれど、時間的に眠っている客もいるだろう。
金属製の階段はただでさえ音を響かせる。足音を立てるのは苦情の元だ。
不要なトラブルは避けるに越したことはない。
この宿は二階建てで一人ずつに取れた部屋も二階。
この踊り場を曲がって上りきれば非常口のすぐ横が自分の部屋だ。
そう思いながら見上げた階段の先に人影を発見した。
最上段の先の小さなスペースに座り込んでいるらしく、最初に見えたのは頭頂部だけだったが、段を上るにつれて次第にその姿が現れてきて思わず声を掛けた。
「?」
なんだか変な人がいるなと思っていたらだったので驚いたというか、呆れたというか……
三蔵がよく『アイツから目を離すと碌なことがない』と言っている気持ちが少しわかる。
呼ばれたは驚いたようにこちらを見た。
「あぁ、八戒……ジープのとこに行ってたの?」
「ええ」
町に一軒しかないこの宿は『ペットの同伴お断り』とかでジープを部屋に入れて一緒に泊まることはできなかった。
しかし、八戒の交渉の結果、宿の裏口わきにある小さな納屋の中に入れさせてもらえることになったのだった。
居心地は客室に劣るだろうが風や夜露を凌ぐことはできる。
八戒は空いていた籠とウエス用だという古いシーツでジープに寝床を作ってやって、上がってきたところだったのだ。
すぐにああいう言葉が出てきたということはも気にしてくれていたのだろう。
「ジープ、どうしてた?」
「少し退屈そうにしてましたけど、ウトウトしてたから今頃はもう寝てると思います」
「そっか……明日の朝ごはんにはジープの好きな物、用意してあげようね」
「そうですね」
そんな会話をしながら段を上った八戒は内心で首を捻った。
はその場に体育座りをしていて、お尻の下に新聞紙を敷いているのは汚れないようにとの配慮だろう。
何かのはずみで尻餅をつき動けなくなったというわけでもなさそうだ。
「はこんなところで何をしてるんです?」
心の内の疑問をそのまま口にした八戒に対するの返事はいたって呑気だった。
「お月見」
そう言われてみれば今日は中秋。月が明るいわけだ。
月見をしようと思う気持ちもわからないでもない。
の傍らに大福が一つ置いてあるのは月見団子の代わりということだろうか?
建物の立地や月の出る方角を考えると確かにここは宿の中ではベストポジションだろうし、季節の行事を大切にするのも良い事だと思うけれど、今、がしている『お月見』は風流とか趣とは程遠い。
でも、なんだからしくて八戒は笑ってしまった。
「えー、そんなに笑わなくったっていいじゃない」
そう口を尖らせるも声は笑っている。
この『月見』が傍目には奇妙に見える自覚はあるらしい。
常日頃、三蔵に一人で出歩くことは控えろと言われているは月見にふさわしい場所を探すことが出来なかったのだろう。
「すみません」
謝る声にはまだ笑いが残っていたがも笑っていた。
十五夜の明るい月光の中で見る笑顔は月よりも輝いて見え、それをもう少し見ていたくなった。
「僕もご一緒させてもらっていいですか?」
「どうぞ」
はそう言って少し動き、新聞紙の上に八戒の座るスペースを作ってくれた。
そこに腰を降ろすと必然的にの隣に至近距離で並ぶことになる。
その距離の近さがなんだかくすぐったかった。
「雲もなくて、いい月ですね」
「うん……あ、これ食べる?」
がそう差し出したのはお供えにしていたらしい大福。
「用意したのはでしょう? が食べてください」
八戒はそう遠慮したけれどは
「じゃあ、はんぶんこにしよ…………はい」
と、大福を二つに千切ってその片方を再度差し出してきた。
そこまでされると遠慮するのは却って失礼になる。
「では、ありがたくいただきます」
さりげなく大きい方を渡してくれたの気持ちが、一つの物を分け合って食べるという親近感が嬉しい。
しかし、嬉しく感じる一方でふと思った。
「……本当は三蔵を誘いたかったんじゃないですか?」
思ったことがそのまま口から出てしまったのは、この状況に勘違いしてはいけないと、無意識のうちに自分にブレーキをかけていたのかもしれない。
言ってしまった後で失言だったかと少し焦ったが、は特に気にする様子もなく笑った。
「誘ったって、三蔵は面倒臭がるだけでしょ?」
「そうかもしれませんね」
確かに腰の重い三蔵は誘われても取り合わないだろう。
たとえ、誘われた事に悪い気はしなくても、それを素直に表すことなどできないのが三蔵なのだ。
「最初から一人でこっそりのつもりだったの。でも、八戒が付き合ってくれて嬉しい」
はそう無邪気に笑い、八戒はその笑顔を独り占めできる状況に喜びを感じていた。
もし、こんなふうにと二人の時間を過ごしたことがバレたなら、三蔵は最大級に不機嫌になってしまうだろうけど、誘ってもらえなかったのは三蔵の日頃の行いのせいであり、それは自業自得というものだ。
自分がここに来たのはまったくの偶然で、ここに留まっているのは何かあった時、ボディーガードになる為。
文句を言われる筋合いなどない。
他愛のないことを話しながら、穏やかに流れていく時間。
会話が途切れても、その沈黙さえ優しい。
澄んだ月光を浴びながら二人は静かに月を見上げていた。
しばらく『月見』を楽しんで、そろそろ部屋に戻った方がいいかもしれないと八戒が思い始めた頃――
( !? )
腕から肩にかけての部分に触れてくるものがあった。
「?」
驚いて見ると、が八戒にもたれて寝息を立てていた。
(……おやおや……)
思わず笑みの形になった口からため息がもれた。
こんなに無防備に眠れてしまえるのは、それだけが自分を信頼しているということ。
それは誇らしいと共に少し痛くもあった。
「? こんなところで寝ると風邪を引きますよ?」
声を掛けてみたけれど、起きる気配はない。
困惑すべき状況なのに嬉しい気持ちになってしまうのは何故だろう?
考えてみると思い当たることがあった。
ジープでの八戒の場所は運転席、は後部座席の悟空と悟浄の間と決まっていて、もちろん野宿の時もそのままだ。
だから、眠ったによりかかられるのは初めてで……
「……少しだけですよ」
誰にともなくそう呟いて八戒はまた空を見上げた。
周りに少し薄雲は出てきているけれど、月は冴え冴えと光っている。
まるで月に監視されているような気分になって、心の中でお願いした。
(風邪を引かせたりなんかはしませんから、あと少し、このままでいさせてください)
月が薄雲に隠れて、『しょうがないから見逃してやる』と言われたような気がした。
(ありがとうございます)
触れたりはしないから、今はこれ以上を望んだりしないから、だから……
もう少し、この柔らかな重さと温かさを感じていたい……
――ええ、あとほんの少しだけ――
end