The kiss of death
その時の悟空はとてもご機嫌だった。
夕食に入った大きな食堂のバイキングはメニューも一品当たりの量も豊富で、時間制限はあるものの、文字通りの食べ放題、飲み放題。
経営者を青ざめさせたであろう悟空の食いっぷりは、しかし、厨房従業員の料理人魂には火をつけたようで、料理の皿は後から後から出てくる。
量にも味にも申し分はなく、正に至福のひとときだった。
「あと何分?」
「15分くらいですね」
「よしっ! ラストに杏仁豆腐取って来る〜!」
「え? まだ食べるの?」
「ハハッ! この店、今夜は完全に赤字だな」
「でも、他のお客さんは悟空の食いっぷりに圧倒されてあんまり食べてないみたいですから、少しはマシなんじゃないですか?」
「焼け石に水だろうがな」
とっくに満腹になっている悟空以外の四人は他愛ないことを喋りながら、制限時間いっぱいになるのを待っている。
じきに、よくこぼさずに持ってきたなと思うほどいっぱいになった杏仁豆腐の器を持った悟空が戻ってきて席についた。
「うめぇ〜!」
喜色満面で頬張る悟空を見ながら、は改めて悟空の胃袋に感心していた。
「本当によく食べるよねえ……」
時々、フロア係の人が下げには来るけど、それでも間に合わず、テーブルの上には空になった皿やコップが溜まっている。
そして、ふと、気付いた。
「あれ? コーラなんてあったっけ?」
悟空が飲んでいるのはコーラらしいけれど、がソフトドリンクを取りに行った時に見た記憶はない。
それにグラスの形も違う。
ソフトドリンクのところに置いてあるのは中くらいのタンブラーだけど、悟空が飲んでいるのはトールグラスだ。
「さあ? 俺ぁ、ビールしか飲んでねーからな」
「ビールサーバーの隣にいくつかカクテルらしいものが置いてありましたけど……」
八戒の言葉で四人の視線はそちらの方向に向かい、そこには確かに同じグラスに入った同じ飲み物があるのが見えた。
「ってぇことはー」
「酒だな」
「キューバリバーかコークハイってとこですかね」
「どっちにしろ、カクテルにしては強めの方よね」
「何杯も飲んでるみたいですね」
「やたら陽気なのは、沢山食べられて嬉しいからだろうと思ってたんだけど……
それだけじゃないみたいね」
「酔ってるな」
「そろそろ、いろんな意味でタイムリミットになんじゃねーの?」
淡々と交わされる四人の会話が聞こえているのかいないのか、悟空はテンション高く杏仁豆腐を食べ、
「ふわぁ〜、美味かった〜!」
そう満足そうに言って、空になった器をテーブルに置いた。
それを合図にしたように、店員が時間になったことを知らせに来て、一行は長々居座った食堂を後にした。
「う……気持ち悪りぃ……」
悟空が青い顔をして、そう口を押さえたのは宿に着いてからだった。
「ああ、やっぱりそうなりましたか」
「あんだけ食って、そう強くもねぇくせに酒、飲んでりゃーなー」
「当然だな」
「え? 俺、酒なんて飲んでねえぞ?」
「お前、飲んでて気付いてなかったのか?」
「おめーがガブガブ飲んでたのはコーラじゃなかったんだよ」
「えぇー?」
「たぶん、コーラを使ったカクテルですよ」
廊下を歩きながら、そんな会話をしていたが、部屋の前に着いた時は、悟空の顔色は更に悪くなっていた。
酒を飲んだ後の悟空がそうなることは知っていたが、飲んだ本人もわかってなかったようだし、他の四人が気付いたのは、もう止めても間に合わなくなってからだった。
どうしようもないのだ。
「早く吐いちゃった方がいいよ」
の言葉に悟空は首を振った。
「……それだけは、ぜってーヤだ」
「悟空はどんなに気分が悪くても吐かないんですよ」
「どうして? その方が楽になれるのに」
「『食ったもんがもったいねえ』んだと」
「……悟空、気持ちはわかるけどさ」
「嫌だ」
気遣うに、悟空は頑なに首を振る。
「バカは放っておけ」
三蔵はそう言って、さっさと自分の部屋に入ってしまい、
「とにかく早く横になった方がいいですよ」
「おう、そんな時はとっとと寝ちまうに限るからな」
八戒と悟浄もそれぞれの部屋に向かった。
今日は全員、一人部屋なのだ。
はヨロヨロと歩く悟空を支えるようにして、一緒に悟空の部屋に入った。
「しばらく、ついててあげるから」
今夜の悟空の食事量はいつもの数倍になっているだろう。
寝ている間にもどして喉につまらせでもしたら大変だ。
は念の為のバケツと水を用意して、ベッドの傍に椅子を寄せた。
「……さんきゅ」
「いいから寝なさい」
くったりと目を閉じた悟空が眠っていくのを、は保護者の気分で見守っていた。
数時間後、あくびをしたは伸びをしながら立ち上がった。
青かった顔色が元に戻り、呼吸からも苦しそうな様子が消えた悟空はぐっすりと眠っている。
明日の朝、二日酔いになっているかどうかまでは責任は持てないが、今夜のところはもうそろそろ大丈夫そうだ。
自分の部屋に戻ってもいいだろう。
寄せていた椅子を元の場所に置いて、ベッドに目を戻すと、悟空が寝返りをうったらしく毛布がめくれていた。
クスッと笑ってベッドに寄り、掛けなおしてやろうとした時だった。
毛布に延ばした手を掴まれて、グイッと引かれた。
虚を突かれた上に身体はベッドの方へと傾けていた。
はいとも簡単にベッドの上に倒れこみ、気がついた時は、悟空の腕の中にいた。
(ええぇ〜〜〜〜!!)
一瞬、頭の中が真っ白になり、状況が理解できなかった。
「ちょっと、悟空!」
呼びながらもがいてみるけれど、悟空はムニャムニャと聞き取れない寝言のような声を返すだけで、腕の力も緩まない。
眠っているくせにこのバカ力だなんて反則だ。
もっと大きな声を出そうと開きかけた口は、だが、途中で閉じられた。
もし、起こしたり、それをきっかけに悟空が身体を動かしたりした拍子に、治まっている吐き気がぶり返したら……?
そう、心配になったのだ。
寝惚けている状態では、うまく堪えられないかもしれない。
もし、今の状態のままもどされたら……?
その先は想像したくない。
は深くため息をついて、悟空を起こすことは諦めた。
悟空は寝惚けていただけだ。
また寝入ってしまったようだし、万が一にも間違いが起きるということはないだろう。
もっと深く眠れば腕の力も緩むかもしれない。
そうしたら、そっと抜け出せばいいのだ。
くうくうと気持ち良さそうな悟空の寝息を聞いていると、昔、子守のバイトをしていた時の事を思い出す。
どんなに人懐っこい子でも、やんちゃな子でも、眠くなった時はお母さんでなくちゃダメになってしまい、添い寝してお話を聞かせたり、子守唄を歌ったりと、寝かしつけるのに苦労したものだった。
(これは『添い寝』っていうより『抱き枕』って感じだけどね……)
三蔵と一緒に寝る時は『包まれている』という感じがするけれど、身長があまりかわらない悟空だと『しがみつかれている』という感じで、なんだか母親のような気分になってしまう。
そういえば……と、思い至る。
――人でも妖怪でもない大地が生んだ無二の存在――
ならば、悟空には親も兄弟もいないのだ。
家族は失ってしまった自分だけど、それでも、思い出や記憶は残っている。
悟空にはそれすらないのだ……
(大きな子供ねえ……)
目が覚めた時には覚えていないだろうけど、は今だけ『お母さん』になってあげることにした。
それは少しの間だけのつもりだったのだが……
悟空の寝息を聞いているうちにうっかり眠ってしまったのだった。
翌日の早朝。
悟空の意識は違和感と共に覚醒に向かった。
なんだかベッドが狭い。
でも、すごく温かくて気持ちいいのだ。
腕の中に何か柔らかくて温かいものがある。
(なんだ? これ……?)
そう思って目を開けて――
一気に目が覚めた。
(誰かいる!?)
ガバッと起き上がると、隣にはが寝ていて……
(えぇ〜〜〜っっ!!)
あんまり驚きすぎて声も出なかったのは幸いだったかもしれない。
状況が理解できなくて、固まっていると
「う……ん」
が寝返りを打って、悟空は慌ててベッドから飛び降りた。
(なんだ? なんだ? なんで? なんで?)
床に座り込んで、?マークでいっぱいになった頭で、必死に昨夜の記憶を辿った。
気付かないうちに酒を飲んで、気分が悪くなって、早く寝ようと思ったらが傍についてくれて、それから……?
たぶん、自分は眠ってしまったのだと思うけど、の方からすすんで他人のベッドに入っていくとは思えない。
じゃあ、何故……?
……そういえば、夢を見た。
山の中で、目の前に幅が5mくらいの谷があって、向こうには三蔵と悟浄と八戒がいて、渡りたいんだけど橋はなくて、自分は跳んで渡れないこともないかもしれないけど、には無理で……
夢の中の悟空は怖がるの手を掴んで引き寄せて胸の中に抱き込んだ。
『ちょっと、悟空!』
は慌てた声を上げたけれど、渡るにはこれしか方法がない。
悟空は片方の端を地面につけた如意棒の反対の端を握り、如意棒を伸ばした。
棒が伸びる勢いで二人の身体が宙に浮き、谷の向こう側に向かっていく。
その間、悟空は落とさないようにの身体をしっかりと抱きしめていた……
全部、夢だと思っていたけれど、掌に甦るの手首を掴んだ感触が生々しい。
どこまでが夢でどこからが現実――?
それはよくわからないけれど、ただひとつだけ確実なのは、昨夜、自分とが同じベッドで一緒に眠ったという事だ。
掌だけじゃなく、腕や胸にも、柔らかなぬくもりの感覚が残ってる。
ボッと顔が熱くなった。真っ赤になってるのは見なくてもわかる。
(うわあぁ〜〜〜〜っっ!!!)
恥ずかしいのと嬉しいのとに対する申し訳なさと、いろんな気持ちが入り混じって、とてもじっとしていられない。
床の上でひとしきりジタバタと悶えて、最後には寝転がった。
ハアハアと息をして、深呼吸を繰り返して、少し落ち着いたら、目は自然にベッドへと戻った。
そこではまだが眠っている。
無意識のうちにベッドの傍へと寄った。
ジープの後部座席だとか、寝込んでしまった時だとか、の寝顔は何度も見たことがあるけれど、こんなに近くで、こんなにまじまじと見つめるのは初めてだ。
今まで気付かなかったけれど睫毛が長い。
おでこもほっぺたもゆで卵を剥いたみたいで、触ったらたぶんすべすべなんだろう。
形のいい唇は紅くて柔らかそう……
思わず手を伸ばしかけて躊躇った。
は自分にとても優しくしてくれるけど、の好きな相手は三蔵で……
二人は恋人同士で……
どんなに近くても
――には手は届かない……
(でも……でも、俺は……)
躊躇って、悩んで、迷って、それでも気持ちを抑えられなくて――
恐る恐る延ばした指で、そっと、の唇に触れた。
一瞬だけだったけれど、指先には、思っていた以上に柔らかだったその感触が確かに伝わった。
そして、その指を、自分の唇に当てた。
ずっとドキドキしていた。
なんだかとてもいけないことをしているみたいで、苦しい気持ちになったけど、でも、せずにはいられなかった。
(……ごめんな……)
心の中で謝って、悟空は床に座り込み、ベッドに背中を預けた。
このまま、が目を覚ますまで、寝たふりをしていよう。
一緒に寝たなんて皆に知れたら、どんな目に合わされるかわからない。
あんなことしたなんてに知られたら、今までみたいに接することはできなくなるかもしれない。
この気持ちは伝えてはいけないのだ。
告げてしまうと、全てが壊れてしまう。
決して口に出せない言葉を呑み込んで、悟空は目を閉じた。
――でも、俺は……が誰を好きでも、俺はが好き――
end