もう一度
パンッと叩いて皺を伸ばす。
辺りにフワリと洗剤の香りが漂う。
洗濯物を干す時のこれが気持ちよくて、は昔から洗濯が好きだった。
今日は朝から雨で、宿を発つことはできなかったし、昼頃には雷まで鳴ってを憂鬱にさせたけれど、雷が治まるとまもなく雨も止んだ。
その後、日が差し始めたので、午後からは洗濯に取り掛かり、悟空、悟浄、八戒の三人は買い出しに出かけた。
今は雨が降っていたのが嘘のようないい天気だけど、庭の芝生はまだ濡れていて生き生きとした緑色が綺麗だ。
いい気分で洗濯物を干していると
「ー!」
名前を呼ばれた。
手を止めてそちらを見ると、部屋の窓から悟空が手を振っている。
横に長い長方形をしているこの宿でとれたのは一階角の大部屋だった。
長方形の長辺の部分には庭木や花壇がよく手入れされている庭があるが、が洗濯物を干しているのは短辺の部分に面したスペースで、自分たちの部屋に面した場所だった。
「お帰りなさい! 買い出しお疲れ様でした」
「お菓子、買ってきたんだ! が干し終わったらおやつにしよ?」
「うん! もうすぐ終るから待っててね」
あと洗濯籠の中に残っているのはタオルが数枚だ。
これを物干し竿に掛けて両サイドを洗濯ばさみで留めるだけ。
はさっさと済ませるべく作業を再開させた。
「あっ‥と」
がそう小さな声を発したのは『もう、これで終る』という最後の一つの洗濯ばさみを取り落としてしまったからだ。
しゃがんで芝生の上の洗濯ばさみに手を伸ばす。そして――
それに指先が触れた瞬間、身体に激しい衝撃を感じ、は意識を失ってしまったのだった。
――ふと気付くとは不思議な場所に立っていた。
辺り一面お花畑が広がり、その一角に川が流れている。
青く澄んだ空は高く、とても綺麗だ。
初めて見る場所のようでもあり、前にも見たことがある景色のようでもある。
そんな奇妙な感覚を覚えた。
(……夢でも見てるのかな……?)
ここがどこなのかも、何故、自分がここにいるのかもわからない。
いつの間にか眠ってしまったのだろうか?
(……あれ? 私、何してたんだっけ?)
寝た記憶はないと思ったけれど、『では、何をしていたのか?』と考えても思い出せなかった。
しばらくの間、ぼんやりと辺りの景色を眺めていたけれど、ハッと思った。
――三蔵は? 皆はどこ?――
「三蔵ー、悟空ー、悟浄ー、八戒ー、ジープー」
呼んでみても返事は一つも返ってこない。
は急に不安になった。
「……え? ……みんな、どこ……?」
夢なら早く醒めて欲しい。
落ち着かない気分でキョロキョロと辺りを見回して、気付いた。
『お花畑に川』
――この世とあの世の間にあるとかいう場所も、そんな感じだという話ではなかったか?――
そう思うと、どんなに綺麗な風景でも、怖くて堪らなくなった。
「三蔵ー! 悟空ー! 悟浄ー! 八戒ー! ジープ!」
声の限りに皆の名を呼びながら、は川とは逆の方向に走り出していた。
(戻らなきゃ! 皆のところに!)
その一心だった。
もし、ここが本当にその場所だったなら、向こう岸には家族がいることになるけれど、まだ、川を渡るわけにはいかない。
走りながら謝った。
『お父さん、お母さん、お兄ちゃん、ごめんなさい。
まだそちらへは行けません。
私の我侭を許してください』
そして、誰へともなく願い訴えた。
『皆のところに戻して!』
『三蔵が好きなの!』
『皆が好きなの!』
『もっと、皆と一緒にいたいの!』
『もう一度、皆と旅をさせて!』
走り続けているうちに辺りは暗くなっていた。
でも、その闇の先に光が見える。
いったん緩みかけたスピードをあげてそちらへと向かった。
最初は点のようだった光がどんどん大きく、眩しくなっていく。
その光に包まれた途端、フッと気が遠くなった。
気がついた時、最初に目に飛び込んできたのは、宿のものとは違う見慣れない天井だった。
(……どこだろう……?)
ぼんやりした頭で思っていると
「あ! !」
「気がついたか?」
「気分はどうです?」
声と共に、悟空、悟浄、八戒の顔が視界に入って来た。
最後に見えた三蔵は無言の仏頂面で、感情が読めない。
「ここは……? 私、洗濯物、干してたはずなのに……」
辺りを見回すと病室のようだったけれど、には、何故、自分がそこに寝ているのかがわからなかった。
「雷が落ちて、感電したんだって」
悟空が教えてくれたが、それだけではよく理解できなかった。
「だって、晴れてたのに……」
「『青天の霹靂』って言葉もあるでしょう?
そういうこともあるんだそうです」
そこから始まった八戒の説明はわかりやすかった。
落雷を受けた庭木からまだ濡れていた芝生に通電し、洗濯ばさみを取ろうとして芝に触れていたも感電してしまったらしい。
そのショックで一時的に心停止状態になり、病院に運び込まれたという。
「びっくりしたんだぜ?
なんか『ダーン!』って大きな音がしたと思ったらが倒れてさ」
「部屋から見える場所でしたし、悟空がのことをずっと見ていたから発見が早くて、病院にもすぐに運べたんです」
「が戻ったら菓子が食えると思って『いつ干し終わるか』って見てたんだよな? コイツは。
でも、まあ、今回ばかりは猿の食い意地が役に立ったってこった」
「とにかく一安心ですね。
しばらくは安静にして様子を見た方がいいそうですが、意識もはっきりしてるみたいですし、この分なら大丈夫でしょう」
口々に言う三人の笑顔からは、いかにホッとしているかが窺い知れた。
「……ごめんなさい……心配かけて……」
「まったくだ」
謝ったに間髪をいれずに言い放ち、三蔵は部屋を出て行った。
(……三蔵、怒ってる……)
自分だって好きで感電したわけではないのだけれど、心配を掛けてしまったのだから仕方ないと、がしゅんとしていると、その場に残った三人が笑いながら言った。
「気にすんな、。ありゃあ、ほとんど照れ隠しだ」
「安心したからって、素直にそう言える人じゃありませんしね」
「さっきの三蔵、すごかったもんな」
三人が言うには、が倒れているのを見てからの三蔵の行動が迅速で驚かされたらしい。
曰く、
『窓の近くにいた悟空よりも速く、窓から庭に飛び出して駆け寄った』
『横臥状態だったを仰向けにすると呼吸と脈の状態を確認し、すぐに心臓マッサージを始めた』
『病院に向かうジープの上でもずっと、心臓マッサージを続けていた』等々。
普段の面倒くさがりで腰が重い三蔵からは想像できない姿だったという。
「……本当に……?」
自身、聞いてもすぐには信じられなかった。
「ホントだって!」
「ああ、マジ」
「でも、三蔵には言わない方がいいですよ。
きっと不機嫌になりますから」
なんだか楽しそうに言う三人は、三蔵をからかう良いネタが手に入ったことを喜んでいるようにも見える。
「……うん」
そう短く返事をしながら、もやっと、どうやら本当らしいと思い始めたのだが……
(でも、まだ信じらんないっていうか、本当ならなんか恥ずかしいっていうか……)
妙に照れくさい気分になってしまうのは何故だろう?
は無意識のうちに掛けられていた毛布を鼻が隠れる辺りまで引き上げてしまっていた。
どんな反応をすればいいのかわからなかった。
そんなの様子を気にすることもなく、三人はさっきの三蔵をサカナに盛り上がり、ついには看護師に注意され、早々に病室を後にすることになったのだった。
一人になってからも、は顔の半分まで毛布を被ったままでなかなか動けなかった。
どうしてもにやけてしまう顔を隠さずにはいられなかったのだ。
――あの三蔵が、自分のために、そんなふうに動いてくれた――
自分の記憶にはないことだけれど、三人の証言と話す様子から察するに事実であることには間違いないようだ。
(やだ、どうしよう? ……嬉しい……)
口から漏れる忍び笑いの声を止められない。
今夜一晩は入院して様子を見ることになっている事は、にとって幸いだった。
一人でいても、こんなに嬉しさを抑えられないのだ。
三蔵を目の前にしたらとても平常心ではいられないだろう。
の病室からは、その後もしばらく、照れ笑いの声が漏れていた。
が落ち着いてきたのは夜になってからだった。
嬉しいのには変わりはないけど、身悶えしたくなるような照れ臭さは治まっている。
一人でいることは少し寂しいけれど、今日のことを思い返せば、しみじみとした喜びが温かく胸を満たした。
(……ちゃんと、お返ししていかなきゃね……)
三蔵だけじゃない。皆に心配と迷惑を掛けた。
その分は何かで返したい。
(……うん。また、明日から頑張ろう)
自分ができることなんて微々たるものだけど、しないよりはマシだと信じたかった。
目を閉じると、夢で見た光景が浮かぶ。
やはりあそこは、思ったとおりの場所だったのだろう。
そこから戻ることが出来た事を、また皆と旅をするチャンスをもらえた事を、幸運に思う。
――もっと、皆と一緒にいたい――
――もう一度、皆と旅をさせて――
あの時、懇願した事は、自分の中にある一番大きな願い。
叶えられた、その『もう一度』の旅を全うできるように祈りながら、は眠りについた。
end