痛み
「いった〜!」
その声に八戒は振り向いた。
ジープでの走行が無理な足場の悪い山道を歩いている途中、は転んでしまったようだ。
もう立ち上がってはいるがジーンズの膝から下が汚れている。
「大丈夫ですか? ケガは?」
「手、擦りむいちゃった……」
近寄ってみるとの両の掌は派手に擦りむけていた。
上り坂なので、咄嗟についた手が全ての衝撃を受け止めてしまったのだろう。
「あー、これは痛いでしょう」
気功で治してやっていると、が心底感心したような口調で言った。
「いつも思うんだけど、八戒の手ってすごいね」
「僕の手ですか?」
「うん、器用でなんでもできるし、傷も治せるし、大きくて…すごく優しい手!
……私、八戒の手、好きだな」
最後の部分に自分の手がビクッと反応してしまったのを、治療を終えた動きの一部にしてごまかす。
『ありがとう』と、礼を言うに『どういたしまして』と、笑顔を返しながら、八戒の胸は痛んでいた。
――私 ……の手 好きだな――
(以前、同じことを言ってくれた人を、僕は守れなかった……)
蘇る記憶。
――果たせなかった約束、救えなかった唯一の半身、奪った無数の咎なき命、人間であることを捨てるのと同時についた腹の傷――
運転をせずにただ機械的に足を運ぶだけの移動や、体力を使う山道の歩行で全員の口数が減っていたのは、良かったのか悪かったのか……
夕方、一日では越えられなかった山中に山小屋を見つけるまで、八戒の肩には引きずるのをやめたはずの過去が重くのしかかっていた。
前の町で買っていた缶詰等で簡素な夕食を済ませた後は、皆、早々に横になった。
その小屋は建物の裏に湧き水を引いているらしい水道はあったものの、電気はきていなかったからだ。
月は雲に隠れている。
わずかな照明の中で起きているよりも、早く寝て明日は早く出発した方がいい。
しかし、真っ暗な空間の中で、八戒はなかなか眠れずにいた。
思い出すのは、昼間のの言葉。
好きだと言ってくれたこの手が、罪で汚れていることをは知らない。
それ故の無邪気なひとことが、痛かった。
心の底で愛せたらと願っても、それを認めることさえはばかられて……
(……この痛みに耐えることも、僕に下された罰なんでしょうか……?)
雨が降っているわけでもないのに、腹の傷が疼いた。
翌朝、寝付くのは遅かったはずなのに、八戒の体内時計はいつもどおりの目覚めを促した。
明るくなった部屋の中を見渡して、先に起きた人物がいることに気付く。
小屋の裏手から聞こえる水の音。洗顔をすべく、八戒もそちらへ向かった。
「おはようございます。」
「おはよう、八戒」
声を掛けると、そう返事をしながら振り向くまだ少し眠そうな笑顔。
「早いですね」
「うん、昨夜は寝るの早かったし、目が覚めちゃったから」
はもう洗面も済ませているようだ。
今は、昨夜食べた缶詰の空き缶を洗っている。
昨夜、食事を終えた時はもう暗くなっていたからゴミとしてまとめただけだったのだ。
隣で洗った顔を拭いていると、の『あれ?』という声が聞こえた。
「どうしました?」
「水が出なくなっちゃった」
洗いかけの空き缶を手に持ったままのが蛇口に顔を近づけた時、
ブシャッ!!
「ぅわっ!!」
軽く爆発するような勢いで、水が出てきた。
の手から落ちた缶がカランと音を立てる。
「大丈夫ですか? ……パイプの中に空気が入ってたんですね」
八戒は悪いと思いつつも笑ってしまった。
しぶきを浴びたが情けなさそうな表情の顔をあげる。
「ごめんなさい……また、やっちゃった……」
「え?」
どうやら、驚いた拍子に缶の口で指先を切ってしまったらしい。
皮膚近くに静脈がはしるあたりだったようで、指の付け根を圧迫して血流を抑えようとしてはいるものの、流れた血が指をつたいポタポタと滴っていた。
「そのまま、止血は続けてくださいね」
言いながら気を送る。
「……いつもごめんね」
謝るはしゅんとしおれている。
「気にしないでください。これくらいの傷ならすぐ治りますから」
「私、昔っから、小さなケガが多いのよ。
それだけドジってことなんだろうけど……」
確かにには意外とそそっかしい部分もあるにはあるが、それだけではないこともわかっている。
「それだけよく動いて、よく働いてるってことですよ」
旅の中での雑用など気にかけず、お姫様然としていればこんなケガはしないはずだ。
昨日、転んだのだって、四人に遅れないようにと、女性には少し無理のあるペースで山道を登っていたからだろう。
一人暮らしの頃ならいくつものアルバイトをしていたそうだから、その中でケガをすることもあっただろう。
「今朝も一番の早起きでしたしね。はい、治りましたよ」
気を送り終えて言うと、は『こんなことしかできないから……』と、少し困ったように笑って続けた。
「昨日さ、『八戒の手ってすごい』って言ったけど、やっぱり違うね」
「ええ、別にすごくなんかありませんからね」
「ううん。そうじゃなくて、『すごいのは八戒だ』ってこと」
「はい?」
「悟浄から聞いたの。
『八戒の治癒は自分の気を相手に送り込んで回復を早めるんだ』って。
それってすごい事だよね。
文字通り自分の元気を人に分けてあげてるってことでしょ?」
その通りなのだが、そんな大層なことをしている意識はない。
の言葉を借りるなら『できることをしている』だけだ。
「八戒はすごいよ」
まっすぐに見上げられて、一瞬、返事に困った。
胸が痛むのは己の罪を知っているから。
しかし、『自分は罪人なのだ』と、告白することはまだできない。
『買いかぶりすぎだ』と、答えるべきなのに、口から出たのは別の言葉。
「にそんな風に思ってもらえるなんて、光栄ですね」
「ふふっ」
隠しても告げても、どちらにしても、痛みは伴うのだ。
ならば今は、この笑顔を曇らせたくなかった。
「あとは僕が洗いますから、は皆を起こしてきてくれますか?」
『うん』と、うなずいたが、何かに気付いた。
「あ、ごめん! 八戒の手にも血がついちゃってる!」
きっと、気を送る時に触れてしまったのだろう。
「汚してごめんね。服にはついてない?」
そう心配するに言ってやる。
「手についただけみたいですね。大丈夫、洗えば落ちます」
何気なく言った自分の言葉にハッとした。
そう ――血は洗い流せる――
今、ここにいるのは、猪悟能ではなく、猪八戒だ。
――生きて変わるものもある――
痛みを感じるのは生きているから……
……少しずつ変わりながら、痛みと共に生きていきましょう。
end