傍にいて

急ぎ足で宿の廊下を部屋に向かいながら、は荷物を漁っていた。

町に着いて、宿では二つ部屋が取れて、買い出しに出かけて――と、いつもの流れだったのだけど、想定外のことで帰るのが少し遅くなってしまった。

タバコの残りも少なかったはずだし、そろそろ三蔵がイラつき出している頃かもしれない。
機嫌取りに使えそうなものはすぐに取り出せるようにしていた方がいいと思ったのだ。

「ただいま! 遅くなってごめんね」

部屋に入ると同時にテーブルで新聞を読んでいる三蔵に謝り

「はい、タバコ」

テーブルの上に頼まれていた物を置く。

「あと、薄皮饅頭も買ってきたから。すぐにお茶淹れるね」

間髪をいれずにそう続けて、一旦テーブルを離れてお茶の準備を始める。

ポイントは三蔵に口を挟む隙を与えないこと。
旅を続けている間に学習した三蔵の怒声を浴びないための対処法だった。

(……上手くいった……かな?)

湯呑みに茶を注ぎながら背後に意識を集中させていたけれど、ため息が一つ聞こえただけで三蔵が文句を言ってきそうな気配はない。
はホッと小さく息を吐いて湯呑みをテーブルに運んだ。

饅頭をお茶請けにして一緒にお茶を飲む。

三蔵の機嫌は良くはないけれどそこまで悪くもない。
平均よりやや低めといったところだろうか?

でも、それも時間の問題だ。

この町に着いた時から曇っていた空は買い出しをしている間に雲の厚さを増していた。
この分だとそのうち雨になるだろう。

雨の夜の三蔵の取り扱い方もだいぶわかってきたけど、正直に言うと少しだけ気が重い。

ただ機嫌が悪いだけなら気にせず素知らぬふりだけしていればいいのだけれど、雨の夜のそれは過去の辛い記憶のせいだと知っているから……

(あ、ダメダメ!)

は漏れてしまったため息はお茶を飲んでついた一息に見せかけて誤魔化した。

まだ降り出すどころか日が落ちてもいないのに今のうちからこれではいけない。
予想するだけで沈みそうになっていた気持ちをは無理やり引き上げた。

その夜、宿の浴場でゆっくり湯船につかりながら、は買い出し中のことを思い出していた。

町に一軒だけのこの宿は商店街とは少し離れた場所にあり、目当ての商品を探してあちこちの店に出入りしている間に結構移動したと思っていた。

しかし、最後に入ったお店の人が四人は旅行者だと察して『そこの路地裏を突っ切れば宿の裏手に出る』と教えてくれたのだ。
荷物も増えていたし降り出す前に宿に戻りたかった四人はこれ幸いとその路地に入った。

が、その先に予想外のことがあった。
路地からの出口の少し先になにやら揉めている人たちがいたのだ。

ただの喧嘩なら構わずに出て行って水を差してやるところなのだが、思わず足を止め声までひそめてしまったのは、それが男女の修羅場だったからだ。

男は女の浮気を責めつつも別れたくはないらしいが、女は浮気ではないと、そして心変わりの原因は男にあると主張し別れると言って譲らない。

四人が出るに出られず困っているうちに平行線のやりとりは決裂の時を迎え、別れを受け入れた男の捨て台詞と共に終了したのだが――

(……『急がば回れ』って、本当ねぇ)

足止めをくらっていた時間は近道をしなかった時の移動時間よりも明らかに長かった。

(あの人たちにも悪いことしちゃったし……)

故意ではなかったにしろ結果として他人のプライベートな部分を覗き見してしまったのも後ろめたい気分だ。

漏れ聞こえた言葉から推察すると、彼氏が仕事の都合で長期不在の時期に彼女の身内に不幸があり、彼女は対応に追われて忙しかったり気落ちして沈み込んでいたりした時に支えてくれた他の男性に気持ちが移ってしまったということらしかった。
それぞれにちゃんとした事情や理由があり、誰が悪いとも悪くないとも言えないケースだ。
強いて言えばタイミングや運が悪かったのだろう。
彼女が彼氏に言ったセリフが耳に残っている。

『私が一番辛かった時に傍にいてくれなかったじゃない!』

(確かに、辛い時に助けてくれた人って大きな存在になっちゃうもんなぁ……)

そう同情する脳裏にと三蔵たち四人の顔が次々に浮かんだ。

(でも――)

三蔵の顔を思い浮かべながら思った。

(――三蔵には『私の傍にいて』なんて言えないな……)

本質的には優しい人だと思うけれど、それをわかりやすく表すような人ではないことも知っている。

何より『最高僧』だの大寺院の『総取締役』だのといった大きな責任を背負った人に、そんな我侭は言えないし、言いたくない。

(でも、だから――)

――私が三蔵の傍まで行く――

そこまで考えて、なんだか可笑しくなった。
今だって似たようなものではないか。

『お前が降りたいと思ったところで降ろしてやる』

そう言われたのにまだジープに乗っているのは、皆の傍にいたいと思うからだ。

それだってある意味では我侭だけど、同じ我侭なら、『傍にいて』と相手を束縛するより『傍にいさせて』と自分が動く方が好みだ。

そして、一番重要なのは、そんな自分の我侭を皆が許してくれているということだ。

だから、頑張ろう、自分にできることを。

はそう結論付けて長湯を切り上げた。

が部屋に戻って少し経った頃、雨が降り始めた。

三蔵の機嫌は密かに、しかし確実に降下し、の口数も減った。

雨音くらいしか聞こえない静かな時間の中で、は考えずにいられなかった。

(私でいいのかな?)

一緒にいても何もしてあげられない。
もし、他の人物だったら、もっといい対応ができるかもしれないのに。
最善の策が『何もしない』ということなら、一緒にいる意味があるのだろうか?

訊きたい。
けれど、訊けない。
いつか、訊けたらと思う。

――ねえ、三蔵、私、あなたの傍にいて……いい?――

end

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