嫉妬

自分で淹れたお茶を一口啜って、八戒は深く長いため息を吐き出した。

「なんだか大変な夜でしたねえ……」

独り言のように口に出すと

「キュウ……」

テーブルの上に乗って夜食にもらった肉まんにかぶりついていたジープが、同意するように鳴いた。

「あなたも疲れたでしょう? 食べたらゆっくり寝てくださいね」

「キュー」

労いの言葉を掛けるとジープは返事をして再び夜食にとりかかった。
そんな姿を見ると、八戒の心も少し和んだが、しかし、今の複雑な気分はそれだけでは払拭できなかった。

お茶を飲みながら、ここ数日のことを思い返す。

三蔵が昔の知人に再会し、是非にと拝み倒されて翌日から始まる彼の寺での法要に出席することになったのは、この町に着いてすぐのことだった。
法要が行われる三日間、三蔵はその寺に、自分たちはこの宿に滞在することになり、一人ずつに部屋がとれたこともあって、その間、自分たちは――「約一名を除いて」という但し書きはつけねばならないだろうが――なんだか妙にくつろいだ気分で過ごしていた。
そして、明日、宿を引き払った後で寺まで三蔵を迎えに行く――はずだった。

ゆっくりしたかった出発前夜だったのだが、それとは程遠いものになってしまったし、恐らくは明日の出発も無理だろう。

(『タダより高いものはない』って言うのは当たってますねえ……)

事の起こりを振り返って、八戒は小さくため息をついた。

そう、最初はそれだった。

宿の食堂で夕食を摂った後、部屋に戻る途中で宿の男性従業員に呼び止められたのだ。

話を聞いてみると『連泊の客には出立前夜にサービスで寝酒を出している。希望の飲み物と届ける時間を指定して欲しい』とのことだった。
グラスで一杯のみということだったが、宿側の気遣いなら受けるべきだと思われたし、酒やソフトドリンクが記されたメニューも見せられたので、それぞれに注文した。
確か、悟空はコーラ、悟浄はビール、はホットミルクだったと思う。
自分はウイスキーの水割りを頼み、それが届けられた時は荷物の整理をしていた。

受け取ってお礼を言って、片付けが終ったら飲もうとテーブルの上に置いたまま作業を再開させた。

その時に、気付いたのだ。
どうやら洗濯物の取り違えがあったらしいことに。

どうみても自分の身体には小さすぎる黒いTシャツはのものだろう。
これがここにあるということは自分のものがの方にいっていることになる。

一瞬、時間を気にしたが、も飲み物を届けてもらう時間は同じ頃だったからまだ起きているだろうし、気付いた時に取り替えておいた方がいいと思って、シャツを手にの部屋に向かった。

幸いもまだ起きていたのだが……様子が変だった。

酒を飲んでいるわけでもないのに、赤い顔をして苦しそうに荒い息をし、『なんだか身体に力が入らない』と八戒の目の前で床にへたり込んでしまったのだ。

とりあえずベッドに座らせて、体温計や薬の入っている救急箱を取りに行こうとドアに向かった時だった。
八戒より先にドアを開けた人物がいた。

鉢合わせになったのは寝酒の注文をとったこの宿の従業員だった。

慌てたような口調で『グラスをさげにきた』と言うものの、トレイもワゴンも見当たらず、ノックもなしに部屋に踏み込み、八戒がいるのを見てギョッという顔をしたのは、明らかに怪しかった。

相手が逃げるように部屋から出たところで取り押さえ、問い詰めると……

なんと、宿からの寝酒のサービスとは真っ赤な嘘で、よからぬ企みのために飲み物を届け、それに一服盛ったというのだ。
目をつけた女性客には媚薬の類、更に、同行者である三人の男たちには睡眠薬を、というのだから悪質だ。

それからが大変だった。

男を宿の主人に突き出して事情を説明し、『自分たちは未遂だったから事を荒立てたくはないが、余罪がないかも追及して、二度とこんなことがないようにして欲しい』と伝え、男の処分は任せた。

悟空と悟浄はまんまと眠らされていたが、盛られたのは健康被害が出るような量ではないので大丈夫だろう。
それに、正直、放っておくより他に手はない。

困ったのはだ。

犯人に確認もとったが、解毒薬、中和剤の類は持っていないという。

様子を見に行ってみると、はベッドでシーツに包まって丸くなっていた。

きっと、もう、座ってもいられないのだろう。
息づかいもさっきよりも苦しそうだ。

? ……辛いですか?」

そっと声を掛けると

「……大丈夫……心配しないで……」

はシーツから顔を出し、荒い息の中で返事をした。

弱々しい笑みを作っている顔は赤く上気し、目も潤んでいる。
薬のせいだ。

中和剤がない以上、楽になれる方法は一つしか考えられない。

しかし、今、ここに三蔵はいない……

「……でも、なんで、急にこんな……」

『怪しげな薬を盛られた』などと言っては動揺させてしまうだろうと思っていたが、理由がわからないのも不安らしい。

「実は……」

八戒がそう切り出して何があったのかを教えたのは、の不安を取り除くためというよりも、自分を抑えるためだった。

――三蔵がいないなら、自分が――

一瞬でも、そんなことが頭をよぎった自分は、薬を盛った犯人を非難できない。

中和剤がないと知ったは落胆の表情を浮かべたが、

「そう……なら、放っといて……大丈夫……これくらいなら、我慢できるから……」

気丈にもそう答えた。
だが、とても放っておけるような状態ではない。

「ですが、やはり病院に――」

「いいの!」

医者に診てもらうことをすすめようとした八戒の言葉を、は強く遮った。

「いいから、放っといて……そんなことで病院なんて、恥ずかしいよ……」

それはそうだろう。
それに無理に連れて行ったとしても、町医者にちゃんと対応できるかどうかもわからない。

「……わかりました」

「ごめんね……我侭、言って……」

「いえ……」

「もう、いいから……八戒も部屋に戻って……」

「ついてなくて大丈夫ですか?」

「……みっともないとこ、見られたくないの……」

それ以上に、もう話すのも辛いだろう。
心配ではあるが、八戒はの言うとおりにすることにした。

「……はい。おやすみなさい」

「……おやすみなさい……」

就寝の挨拶はしたが、やはり気がかりで、八戒は部屋を出る前に振り向いた。

はまた頭からシーツに包まっていた。
その中で背を曲げたり伸ばしたりしているように見え、シーツからはみ出している足先も指がもぞもぞと動き続けている。
きっと、苦しくてじっとしていられないのだ。

思わず戻りそうになった足が、止まった。

「三蔵……三蔵……」

は、涙に濡れた声で、小さく、その名を呼び続けていた。

そんな声を聞いてしまったら、傍になどいけない。
八戒はそのまま、そっと部屋を出た。

このまま自分の部屋に戻っても眠れるわけがない。
廊下を歩きながら、八戒は自分のすべきことを考え、決めた。
残る手立ては一つだけだった。

幸い、午後から降っていた雨も、今は止んでいるし、寺への地図も貰っている。

八戒はジープをとばし、三蔵を迎えに行った。
寺に迷惑をかけてしまうことは百も承知だが、そうするしかなかった。

なんとか取り次いでもらった三蔵に緊急事態であることを伝え、予定より早く連れて帰った。

ジープを走らせながら詳しい事情を説明し、の部屋へ送り込んだのがついさっき。

(本当に、大変でしたよ……)

八戒はどっと疲れた気分で、湯呑みのお茶を飲み干した。
もらった夜食を食べ終えたジープはもうウトウトし始めている。

だが……

(こんな気分じゃ寝つきも寝覚めも悪くなりそうですね……)

入浴は事件の起こる前に済ませていたけれど、その後に出かけたりもしたので、軽くシャワーを浴びることにした。

気分転換のつもりだったが、しかし、上手くはいかなかった。
気分はまだスッキリしないままだ。

ユニットバスの中で濡れた身体を拭いていると、鏡に映った自分の姿が目に入った。

緑色の瞳と、左耳の妖力制御装置。

(『The green-eyed monster』……ですか…… まったくその通りですよ)

『嫉妬』という意味の言葉が、自分と一致する。
その事実に気付いて自嘲した。

妬いているのだ、三蔵に。

あの二人が、今、どんなことになっているかは容易に想像できる。

しかし、それよりも妬けるのは、あんな状態のが、苦しさの中で泣きながら三蔵の名を呼んでいたことだ。

が』というのではなく、あんなに人に慕われる三蔵が、愛し合う相手と共に過ごせる三蔵が、羨ましかった……

今夜、何度目かのため息をついて、ユニットバスを出る。

ベッドに向かおうとして、それが目に入った。

テーブルの上に置かれたままになっていた水割りのグラス。

バタバタと慌しくしていたので、片付けるのを忘れていたのだ。

八戒はそれを手に取り、ふた口ほど飲んでから、残りを捨てた。

睡眠薬入りだとはわかっていたけれど、そうでもしないと眠れそうになかった。

今夜は、無理やりにでも、この緑の目を閉じていたかった。

end

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