honest peach
『飲まぬ酒には酔わぬ』
『酒は飲むとも飲まれるな』
『酒は諸悪の基』
『酒極まって乱となる』……
その時、三蔵の頭の中には酒に関する諺の類が次々と浮かんでいた。
目の前ではが真っ赤な顔いっぱいに笑みを浮かべている。
顔だけでなく首や手までをピンクに染めているのは摂りすぎたアルコール。
ベッドの端に腰掛けたはそのほんのりと桃色を帯びた手で三蔵の法衣の袂をしっかりと握っていた。
「逃がさないよーだ」
したり顔で言ってくるは三蔵の呆れ顔にも気付かないほど、完全に酔っ払っている。
二人部屋なので必然的に三蔵はこのトラの相手を一人でしなければならない。
諺を思い浮かべてしまったのは一種の現実逃避だった……
以前、荷物よろしく担いで運ばれて以来、酒量には気をつけていたはずのがこうなってしまったのは、この町でこの宿を選んでしまったせいだった。
夕方に辿り着いた町。
それまで強い横風を受けながら荒野を走っていたせいで埃まみれになっていた一行は、町に入って最初に見つけた宿に飛び込んだ。
その宿の隣に造り酒屋があったのだ。
とり急ぎ風呂で汗と埃を流した後、宿の食堂で夕食を摂りながら聞いた話によると、宿と酒屋は同族経営で、宿の宿泊客は酒屋の酒の試飲も出来るとのこと。
試飲して気に入った酒は、酒屋はもちろん宿でも購入が可能で、宿の食堂ではグラスでもボトルでも注文できるようになっていた。
一行は面白がって宿のおかみさんの説明を聞きながら試飲を重ね、はその中の一つがえらく気に入ったようだった。
「あ、これ! このピンク色のお酒、すごく美味しい!!」
「ああ、それは桃を使った果実酒で女性に人気があるんですよ」
「飲みやすいし香りもいいですね」
「ええ、皆さんそうおっしゃってくださいます。
炭酸水で割って飲むのがオススメですよ」
二人の会話を聞いて、四人ものお気に入りの酒を飲んでみた。
「……甘えな」
「果実酒なら度数もそれなりに高いんでしょうけど、そんな感じがしませんね。
口当たりが良すぎて物足りないというか……」
「うん、なんか、ジュースみてぇ」
「ま、確かに女ウケは良さそうだけど、俺はパスだな」
次の酒を試飲しているの後方で口々に好みに合わないと言う男たちに、宿のおかみさんは『実はね』と声を掛けた。
「これは魔法のお酒なんですよ」
「「「「 はあ? 」」」」
呆れたような声を出した四人におかみさんは内緒話をするように続けた。
「『これを飲むと隠し事ができなくなる』って言われてましてね。
そういういわくも女性には面白いみたいで……」
そこまで言ったところで、他の人に呼ばれたおかみさんは行ってしまい、後には怪訝な顔をした四人が残された。
「なあ、本当かな?」
「そんな事あるわけねえだろうが。馬鹿馬鹿しい」
「強い割に甘くて飲みやすいから飲みすぎて口が軽くなっちまうだけじゃね?」
「それにプラスしてプラシーボ効果とか自己暗示とか、そういった類の効力もあるのかもしれませんが、眉唾な話ですね」
子供騙しな話にいささか白けた気分で食事の席についたが、その時、『美味しかったし、値段も手頃だったから』と、が手にしていたのが件の酒と炭酸水のボトルだった。
少々の不安が胸をよぎったが、が酒を所望するのは珍しかったので、たまにはいいかと好きにさせた。
それが間違いだった。
『酒口に入る者は舌出づ』とはよく言ったもので、いつもより陽気なはよく喋り、その分、渇いた喉がよりグラスを重ねさせた。
一応『飲みすぎるなよ』と声は掛け、も『わかってる』と返事をしていたのだが、食事を終えた時にはいつもより酔っていることは明らかで、部屋に向かう時も歩くことはできたがその軌跡は大きく蛇行していた。
「おいおい、大丈夫かよ?」
そう振り向いた悟浄が足を踏み出す前に、三蔵はの二の腕を掴まえた。
「だから言ったんだ」
「んー? だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「全然、『大丈夫』じゃありませんよ」
「がここまで酔うのって珍しいな」
「酔って晴らしたい憂さでもあったんじゃね?」
「『憂さ』って?」
「さあ? 心当たりがあるなら三蔵だろ?」
「勝手なことぬかしてんじゃねえよ」
「まあまあ、とにかく早く横にならせてあげた方がいいですよ。
今日はもうお風呂も済ませてますしね」
そんな会話をしながら、引きずるようにを部屋へ連れ帰ったのが、ついさっき。
ところが、室内に入って三蔵が手を離すと同時に、はその場にへたり込んでしまったのだ。
動いたことで酒が回ってしまったのだろう。
「あれぇ? 立てない〜〜! なんでぇ? あははは〜、おかしー」
そう笑うにハリセンを食らわせなかったのは自分でもよく我慢したと思うが、抱え上げたをベッドへと放り投げたのはせめてもの腹いせだった。
「投げたー! ひどーい!」
口を尖らせながらのの文句には耳を貸さず、ベッドから離れようとしたら何かが袖に引っ掛かった。
振り向くとが法衣の袂の端を握り締めていた。
「逃がさないよーだ」
……
『酒に呑まれる』
『酒は百毒の長』
『酒と産に懲りた者がない』
『酒盛って尻切られる』
一瞬の現実逃避の後、三蔵は呆れたようにを一瞥し、帯を解いて法衣をその場に脱ぎ捨てた。
「持ちたきゃ持ってろ」
「もーっ! 三蔵のばかー! 生臭ー! タレ目ー!」
法衣を振りながら罵るの雑言は無視し、部屋に備え付けの冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
「ほら、飲め! この酔っ払い!」
ベッドの傍まで戻ってまぬけな赤ら顔を晒している酔人に差し出した。
「ありがと」
はさっきまでの悪態から掌を返したような笑顔で見上げてくる。
その直後、が伸ばした手はボトルを素通りし、三蔵の腰に巻きついた。
「おい! 何やってんだ!? バカ!」
酔っ払いの加減知らずとでも言おうか、横からがっちりと抱きつかれて身動きがとれない。
「つっかまぁえたー!」
腰の辺りからくぐもって聞こえる声はそれでも笑っているのがわかって、こめかみに青筋が浮く。
今度こそ殴ってやろうかと思った三蔵の耳にそれが届いた。
「三蔵、だーい好き!」
聞き慣れない言葉に三蔵の動きと思考が一瞬止まる。
「……何か言ったか?」
それだけ言うのがやっとだった。
「……大好き……」
うっとりとしたような響きを含んで繰り返された言葉に、聞き間違いではなかった事を確信した。
「……珍しいな。雨でも降らせる気か?」
決して不快なわけではないのに、むしろその逆なのに、そんな言い方しか出来ない。
性分というのは難儀なものだ。
「本当はね、いつだって言いたいの! でも、我慢してるの!」
三蔵の返事が不満だったのか、怒ったような口調で言っただったが、大きくため息をついて、静かに続けた。
「……ううん、違う……いつも言ってる。
声に出さないで、心の中で……指先で……いつも言ってる……」
三蔵は返す言葉を見つけられなかった。
ただ、温かい感情が胸の中に広がっていく。
「私は、甘えん坊で、わがままで、でも……だから……いつも、いろいろ我慢してるの」
「……何を?」
「……本当はぁ、二人でぇ待ち合わせとかぁ、デートとかぁ、してみたいしぃ、手ぇ繋いだりぃ、腕、組んで歩いたりぃ、してもみたいしぃ、二人っきりの時はぁ、もうちょっとだけ、ベタベタしてたいしぃ……
でもぉ、そういうの、我慢してるの!」
「何故?」
「だってぇ、三蔵はぁ、すっごく偉いお坊さんだしぃ、こーんな旅してる途中でぇ、そんな場合じゃないしぃ、一応、私の方が年上なんだしぃ、言うの恥ずかしいしー!」
甘えるように照れ隠しのように語尾を伸ばしながらの告白だった。
(……言ってるじゃねえか……)
――酒の中に真あり――
以前、『簡単には口にしたくない』と言っていた言葉を、普段なら隠し通せる願望を、酔いに任せて吐き出してしまったのは酔態かもしれないが、この酔語は間違いなくの本心だろう。
今、三蔵の目の前にいるのは、優しい家族に愛されて少し我侭に育ってしまった甘えん坊なだった。
「……でも……好き……三蔵のことが……大好き……
ずっと、三蔵と一緒にいたい……」
呟く声が湿っていた。
「泣いてんのか?」
声を掛けると、はスンと鼻を鳴らした。
「……うん。なんでだろ? ……『愛しい』って思うと、泣けてきちゃうの……
悲しくなんかないのに……」
片手にペットボトルを握ったままで、腰に抱きついた酔っ払いの話を突っ立ったまま聞いている玄奘三蔵という図は、傍から見ればさぞかし滑稽だろう。
しかし、その状態を壊す気にはなれなかった。
こういう時だからこそ、知ることができる事も、こういう時でなければ聞けない言葉もあると、学習している最中だ。
「……ねえ、三蔵」
「なんだ?」
「……愛してる……」
素面のからは絶対に聞くことができないだろう言葉が、三蔵の耳に甘く響いた。
それに応えられる台詞など持ち合わせていない。
今の自分を支配している感情を呼び表す言葉など知らない。
「ねえ? 聞いてる?」
抱きついたまま見上げてくると目があった。
三蔵は湧き上がる衝動を行動に移さずにいられなかった。
水のボトルを投げ捨てる。
「……聞こえてる。もう、これ以上喋るな」
ずっと腰に絡まっていたの手を引き剥がし、そのままベッドに押し倒す。
このままの声を聞いていると、とんでもない事を口走ってしまいそうだ。
唇を塞いでしまえばいい。話せる余裕など無くしてしまえばいい。
自分も酔っているのかもしれない。の言葉に……
「誘ったのはお前だからな」
――酒の終わりは色話――
その後、の口から漏れるのは意味を成さない嬌声が大半を占めた。
翌朝、目を覚ましたが起き上がれなかったのは二日酔いのせい――ではなく、愛されすぎた為の発熱と全身の疼痛のせいだった。
「ねえ? 私、昨夜、何か変なこと言ったりしたりしなかった?」
ベッドの中からおずおずと訊いてくるは、前夜、食堂を出たあたりから、朝、目覚めるまでの間の記憶が無いようだった。
三蔵は新聞を捲りながら一言だけ返す。
「さあな」
それで別に構わない。自分だけが覚えていればいいことだ。
「出発できないのに三蔵の機嫌が悪くないって事が、なんか怖いんだけど……」
「半分は自業自得みてえなもんだからな」
の飲酒を許したのも、抑えを無くして好き放題にしてしまったのも自分だ。
「……ごめんね。しばらくお酒は控えるから……」
昨夜、を酔わせたいわく付きの果実酒はまだ残っていて、ボトルは八戒が預かっている。
酔わせる事はいつでもできる。
「ああ、そうしろ」
そのうち、また、何か隠し事でもしていそうな時に飲ませて白状させてやろう。
密やかな企みに眼鏡の奥の目を細くする三蔵だった。
end