ぬくもり
「風が出てきましたね。日も翳ったようですし……寒くありませんか?」
八戒は隣を歩いているにそう声を掛けた。
二人で林の中を歩いて町へと向かっているのは、突発的な人助けに三蔵の不注意が重なった結果。
最初、歩かせてしまう事を謝った八戒に、は『いい散歩』だと笑ったが、吹き始めた北風に流れてきた雲がそれまで差していた薄日を遮り、『散歩』にはあまり適さない空模様になってきていた。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
最後の『ありがとう』は気遣ってくれてという意味だろう。
小さな事にも素直に礼が言えるのはの美点だと思う。
そして
「でも、少し急いだ方がいいね」
と、言ったのは、天候の変化や八戒の性格を的確に判断してのことだ。
の体力を気遣う癖のある八戒には自分の方からペースアップを切り出すことはしにくい。
の方から言ってくれたのは有り難かった。
「ええ、そうですね」
短く返事をすると、は早速、歩調を速めた。
それまでは他愛のないことを話しながらのんびり歩いていたのが、無口になりずんずんという勢いで歩いていく。
八戒はその極端とも言えるようなスピードの変化に苦笑しながら、の半歩後ろをついていった。
この距離なら、万一、が転びそうになったりしても横から支えてやることができる。ジープを先に帰してしまったのは自分なのだから、これくらいのフォローはしてやらねばならないだろう。
傷は気功で治せるとはいっても痛い思いはさせたくなかった。
すでに『散歩』や『ウォーキング』でなく軽い競歩のトレーニングという感じで歩く二人は林を抜けて、草原の広がる場所に出た。
ここから町までは1km弱というところだろうか?
普通に歩いても15分ほどで町に着く。
「もう少しですから、ちょっとペースを落としませんか?
あんまり急ぐと疲れちゃいますよ?」
息を弾ませているに八戒がそう声を掛け、
「だって、空はどんどん暗くなってきてるし――」
と、が返事をしながら振り向いた時だった。
ザアーッ
音を立てて雨が降り始めた。
「「 うわっ! 」」
思わず二人同時に声をあげてしまったほど、突然で激しい降り始めだった。
「もーっ! 言ってるそばからー!!」
空を見上げて文句を言うと八戒を勢いよく落ちてくる粒の大きな雫が容赦なく濡らしていく。
八戒は肩に掛けている布を外しながら辺りを見回して雨宿りできそうな場所を探した。
「そんな事言うより早くこっちへ!」
を呼びながら両手を上げて頭上に布を広げる。
その意図を察したは八戒の隣に飛び込んできた。
布を雨避けに走り、来た道を林まで戻る。
二人がいた場所から町への方向は草原で建物などあろうはずもなく、最も手近な雨宿り場所は木の下だったからだ。
二人で一番手前の広葉樹の下に駆け込んだ。
なんとか雨はしのげそうだ。
「濡れちゃいましたね……」
出来るだけが濡れないように気をつけたつもりだったが、撥水加工がされているわけでもない布では限界があった。
「仕方ないよ。この降り方だもん」
雨の勢いは治まる様子を見せず、逆に激しくなった気さえする。
風も強くなってきた。
「しばらくはここで雨宿りですね」
悟浄は食堂で昼間からビールを飲んでいた。
三蔵は腰が重いし、悟空は運転をしたことがない。しかも、この雨だ。
誰かがジープで迎えに来てくれる可能性はたぶんゼロだろう。
「うん……早くやむといいね……」
雨よけにしていた布を絞っているとブルッと身体が震えた。
雨に濡れて、風に吹かれているのだ。さすがに寒い。
を見ると、縮こまらせた身体を両手で抱えるようにしながらさすっている。
一般的に体脂肪率が高いのは女性の方だがの場合はそれほどでもなさそうだし、冷え性が多いのは女性の方だ。
たぶん、自分より強い寒さを感じているだろう。
躊躇ったのは一瞬だけだった。
「緊急避難措置ということで、少し我慢してくださいね」
気功で傷の手当をする時のような、なんでもない口調で言って、寒さに震えるの身体を胸に抱きこんだ。
「ちょっ……! 八戒?」
慌てた声を上げるを離さないまま、八戒は身体の側面で木に寄りかかった。
「こうしていれば、少しは温かいでしょう?」
風上に背を向けて木に密着しているので、多少の防風効果はあるだろう。
「あなたに風邪を引かせると、あの連中に何をされるかわかりませんから……」
建前といえば建前。
どんな口実があろうと、と温めあったなどと知れれば、それはそれで、それなりの報復をくらうだろう。
そして、風邪を引かせた場合よりも今の状態がバレた時の方がより大きな怒りを買うであろうことも想像に難くない。
「そりゃあったかいけど……でもっ!」
たぶん、としても八戒の言い分はわかっても、抵抗はあるのだろう。
でも、それがわかっていても、離す気にはなれなかった。
腕の中で困ったように身じろいでいたを大人しくさせたのは、暗い雲に覆われた空を一瞬明るく照らした稲光。
雷嫌いのには申し訳ないが、八戒にとってはグッドタイミングの助け舟だった。
その後、遠くからの雷鳴がゴロゴロと聞こえる度にはビクッと身体を震わせた。
「大丈夫。遠いですから、少なくともこの木に落ちる心配はありませんよ」
が落雷の心配をしているわけではない事はわかっていたが、とりあえず言ってみた。
「……うん」
「それにしても降り出したのがあの子たちを送り届けた後でよかったですね」
「……うん」
「お兄ちゃんの方はただでさえ熱があったわけですし……」
「……うん」
「…………寒くないですか?」
「……うん」
生返事を続けるは、とにかく雷に意識が向かっているようだ。
不思議なもので、人間は、嫌いなものには敏感になってしまうらしい。
今は何を言っても無駄だと判断した八戒は話し掛けるのをやめた。
恐らくはこの雨も雷雲のせい。
雷が止めばそのうち雨もやむだろう。
せっかくが大人しくなってくれているのだから、このまま、温めあっていよう……
寒さのせいではなく震えている腕の中の細い身体に庇護欲と愛しさが募る。
強く抱きしめているわけではないのに伝わってくる柔らかな感触と、確かなぬくもり。
忘れていた……こんな温かさは……
先にジープを帰したのは、あの三人に降りかかっているであろう困った状況を一刻も早く解決させる為。
でも、少々その状況を延ばしても、車を飛ばして帰ることもできた。
それをしなかった理由に、と二人の時間をもう少し楽しみたいという気持ちがなかったと言えば嘘になる。
自分の我侭のせいでを雨に濡らしてしまった。
だから、せめて、寒くないように風よけになってあげよう。
温めてあげよう。
(まあ、どんな言い訳をしようと偽善なんでしょうが……)
今までにも傷の治療で触れたり、抱えて運んでやったりしたことはあった。
しかし、をこんなふうに腕の中に捕まえたのは初めてだ……
の気持ちが三蔵にあることは知ってる。
だから、この状況に困惑していることもわかる。
今の自分が雷に怯えるの隙につけこんでいることも承知している。
その事に良心の呵責を感じないこともないし、に対して後ろめたい気持ちになっているのも事実だ。
……でも、もう少し、このままでいたい……
風を受けている背中は冷え切っていたけれど、心には少しの痛みを感じてはいたけれど、八戒の胸は確かなぬくもりを感じていた。
end