笑顔
「あれ?まだこんな時間ですか……」
宿の部屋で目を覚ました八戒は、時計を見てひとりごちた。
起きるべき時刻にはまだかなりの時間がある。
(どうしましょうかねえ……)
二度寝しようかと思っても、既に目も頭も変にスッキリと冴えてしまっている。
ここのところ、ずっと、山間部の悪路を運転していたせいで疲れていたようで、昨夜はベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
そのまま深い睡眠をたっぷりととってしまったらしい。
カーテンを開けて見れば、空は日の出を迎える少し前といった明るさ。
窓を開くと冷たい朝の空気が熟睡後の身体に心地よく、早起きの小鳥の鳴き声も聞こえてきた。
気分のいい朝であることには違いない。
もう、このまま起きていることにした。
とりあえず、顔を洗って身支度を整えようとしていると壁の向こうから音が聞こえた。
自分の他にも、もう起きている人間がいるらしい。
(おや? 今日は三蔵もずいぶん早起きですねえ?)
音が聞こえた側の隣は三蔵の部屋だ。
(ちょっと行ってみますか)
丁度、三蔵に相談したい事があったのだ。
寝起きという点は多少の不安要素ではあるが、起きて動いているのだから、なんとかなるだろう。
寝ているジープを起こさないように気をつけながら身支度の続きや荷物の整理を済ませて、太陽が頭を覗かせた頃、部屋を出た。
ドアをノックしても返事はなかった。
(確かに起きていたはずなんですけどね)
不思議に思いながらノブに手をかけてみると回る。
施錠はされていないらしい。
「三蔵? 僕です。入りますよ?」
声を掛けながら部屋に入って、返事が無かった理由を知った。
ユニットバスの中から聞こえてくる水の音。
シャワーを浴びている最中のようだ。
普段の八戒なら、一旦退出して出直すのだが、この時は動けなかった。
予想をしなかった光景がそこにあった。
ベッドの上、カーテン越しの朝の光に包まれた細い身体。
あちらを向いてうつ伏せになっている白い背中が微かに上下している。
ぐっすり眠っているのだろう。
腰骨の辺りから下は毛布に隠れているといっても、何も身に着けてはいないのだろうということは容易に想像できてしまう。
それが誰であるかもわかる。
いや、「わかる」というより、それしかあり得ない。
しかし、ここにその人物がいることは全くの想定外だった。
彼女の顔が向いている方のベッド上にはスペースが空いていて、そこにいた人物と一つのベッド、一枚の毛布を共用して朝を迎えたことは明らかで……
気持ちよい目覚めをもたらした爆睡が仇。
いつもなら嫌でもわかってしまうのに、昨夜に限って、隣が「そういう事」になっている事に気付かなかった。
何より、彼女の部屋に三蔵が行くことはあってもその逆がある可能性など考えてはいなかったのだ。
女性に対して失礼極まりない事だとわかっていても、目が離せない。
意外な事に驚いてしまったこともあるけれど、その情景があまりに美しかったせいもあった。
もし自分に絵心があれば、この美しさをカンバスに写し取りたいと思っただろう。
背中にいくつか散らばった紅い跡は心に痛みを伴わせたが、それさえ美しいと感じた。
半ば放心状態で突っ立ったまま見惚れていると、カチャという音と共にユニットバスのドアが開いた。
そこからジーンズをはいただけの姿の三蔵が出てくる。
「八戒……?」
不思議そうに自分の名を呼ぶ三蔵の声を聞いて、思考と身体の金縛りがとけた。
「こんな早くにどうした?」
訊いてきた三蔵は、その直後、部屋の状態に気付いたようだ。
「――っ!」
詰まるような短い声を発した後、足早にベッドに近づいて、めくれて下半身しか隠していない毛布をバサッとにかけ直す。
その拍子にも目が覚めてしまったようだ。
「……さんぞ……?」
寝ぼけ声の小さな呟きと共に、ぞんざいな掛け方をされた毛布からはみ出している手が何かを探すように空いているスペースの辺りをさまよい、その後、ゆっくりと寝返りをうった。
仰向けになったところで、まだ眠そうな目が、手で探していた相手をベッドサイドに発見したらしい。
その時の、嬉しそうな、蕩けるような笑顔……
「もう少し寝てろ」
にかける三蔵の声も、耳を疑うほど穏やかで、その響きも優しい。
三蔵の言葉には小さく頷いて目を閉じ、すぐにまた眠ってしまったようだ。
三蔵は安堵したようため息をついて、落ちていたアンダーシャツを拾って着た。
八戒は一連のやりとりをただ見ているだけしかできなかった。
「……何か用だったんじゃないのか?」
気まずさを押し隠した顔でこちらに向き直った三蔵に訊かれて、八戒は自分がここに来た理由を思い出した。
「あっ、はい! あの……ちょっと、訊いてみたいことが、あったん、です、が……」
決まりが悪いのは八戒も同じこと。言葉の歯切れが悪くなる。
「……場所を変えよう」
「……はい……」
あの状態のがまた目を覚ました時に部屋に三蔵以外の男がいては困るだろうし、相談の内容もには聞かれない方がいい。
二人で八戒の部屋に移った。
「で、なんだ?」
椅子に座った三蔵が尋ね
「はい。のことです――」
ベッドに腰掛けた八戒はそう切り出した。
「――もし、妖力制御装置での珠の力を制御することができるなら……と、思ったんですが、そういう特殊なカスタマイズは可能でしょうか?」
あれ以来、が力を使ってしまうような事態は起こっていないが、それはあくまでも『今のところ』の話である。
こんな旅をしている以上、今後、何が起こるかわからない。
八戒は、悟空の金鈷や自分のカフスのように、特殊な装置で大きな力を押さえ込むことができれば、珠の力の発動やせめて暴走という最悪の事態は防ぐことができるのではないか、と、考えたのだ。
しかし、三蔵の顔色は渋かった。
「それは俺も考えた事はあるんだがな。
しかし、まず、妖力と珠の力では通常の状態が全く違う」
「ええ……」
短く答えて頷く八戒もそこが問題だと思っていた。
だから、その設定ができるかどうか、まず三蔵に相談したのだ。
「妖力制御装置ってのは、常時大きな力を抑制する言わば『変圧器』だ。
だが、の場合、突発的に巨大化する力を抑えねばならん」
「つまり、『ブレーカー』ですね。に必要なのは……」
「ああ、コントールするという点では同じだが、その仕組みも役目もまったく違う」
「……悟空に制御装置を付けることができるのなら、の力も――と、いうのは短絡的でしたか……」
そう、ため息をついた八戒に三蔵は続けた。
「菩薩は『珠は体内に存在するだけで宿主の生命維持の役割を果たす』と言っていたが、平常時に制御装置をつけた場合、なんらかの影響が出ないとも限らん」
「確かに……そういう危険性もありますね……」
「俺も、こういうケースを見聞きするのは初めてだからな。
不明点が多すぎて、慎重にならざるを得ん」
三蔵の表情は苦々しそうで、何の手も打てない自分自身に対する苛立ちを感じさせた。
そして、それは八戒にとっても同じことだった。
「……『強くなるしかない』ってことですね」
「……癪だがな……」
悟空の言葉を借りて八戒が出した結論を、三蔵は自嘲気味にそう肯定した。
三蔵が自分の部屋に戻った後、八戒はさっきまでのことを思い出していた。
より強い印象で残っているのは、最初に目に飛び込んできた光景ではなく、が三蔵に見せた表情。
(あんな顔、見たことありませんでしたもんねえ……)
それは、愛する相手だけに見せる、全幅の信頼と最大級の愛情が込められた笑顔。
三蔵しか知らない、三蔵だからこそ引き出せる後朝の笑顔。
(僕のことなんて全然、目に入ってませんでしたし……)
が八戒の存在に気付かなかったのは、あの場合、好都合だったのかもしれないが、心情としては複雑だ。
或いは……と思っていた案が空振ったこともあって、目覚めた時には良かった気分はすっかり沈んでしまっていた。
しかし、悶々としている間にも時は過ぎる。
朝食の時間になったところで部屋を出ると、廊下でに会った。
「おはよう! 八戒!」
明るい顔と声で言われて、内心の後ろめたさを得意の営業スマイルで隠した。
「おはようございます、」
そして、思った。
自分に向けられるこの笑顔をなくさない為に出来ることは一つだけ。
――強くなりますよ。僕もね――
end