Your hands
その朝、目を覚ました八戒は、起こそうとした身体のだるさに一瞬、戸惑った。
(ああ……そうでしたね……)
思い出して横になったまま苦笑する。
野宿の後の移動で、一行が昨夜やっと辿り着いたこの町は、正に妖怪の襲撃を受けている最中だったのだ。
到着前から妖気は感じていたからてっきり待ち伏せかと思っていたが、実際は、刺客でも賞金稼ぎでもない妖怪の盗賊団が人間の町を襲っているところだった。
30人ほどの妖怪は雑魚ばかりで、倒すのは楽勝だったのだけれど、町の人間の方に怪我人が多く、治療を一手に引き受けていた八戒は気功の使い過ぎで倒れてしまったのだ。
遠くなって行く意識の中で、悟空やが自分の名を呼んでいたことは覚えている。
(えぇっと、ここはどこなんでしょうね?)
目だけで見回した部屋は小ぢんまりとして、ごく一般的な宿屋の一人部屋という感じだが、昨夜は宿をとる暇もなかったはず……
状況の把握に努めようとしていると部屋のドアが静かにノックされた。
「はい」
返事をすると、
「あ、起きてた? 具合はどう?」
言いながら入ってきたのはだった。
「ちょっと、疲れてるだけです」
「『ちょっと』じゃないでしょう? 無理はしないでね」
諌めるようなの口調に少し笑ってしまう。
(なんだかいつもと逆ですね)
「朝ごはん作ってきたの。食欲はある? あ、こっちの小皿はジープの分ね」
トレイの上にはお粥の土鍋と、肉類のおかずがのった小皿。
「はい。いただきます」
起き上がって食べ始めると、は昨夜のことを教えてくれた。
「びっくりしたのよ。
八戒ったら、怪我人の最後の一人の治療が終わると同時に倒れるんだもの」
悟空もも周りにいた町の人たちも慌てたが、三蔵と悟浄は割合冷静で、悟浄が背負って、教えてもらったこの宿に運び込んだという。
「午後からは天気が崩れそうって話だからどうせ出発もできないし、今日はゆっくり休んでね」
「ええ、そうさせてもらいます……
の方こそ大丈夫ですか? 疲れてません?」
昨夜は重傷の人から先に治療をした。
その間、は軽傷の人の手当てを手伝ったり、負傷した親が治療を受けている間の子供の相手をしたりしていた。もずっと動いていたはずだ。
「私なら平気。大したことしてないし、昨夜もちゃんと寝たから」
「……、なんだか、妙に張り切ってません?」
きっと、また『八戒の分まで頑張ろう』とか思っているのだろうという想像はつく。
「ん? 別に普通のつもりだけど……そんなふうに見える?」
「……少しだけ」
「まあ、『洗濯したいな』とか、『買出しに行きたいな』とかは思ってるけど……」
「無理はしないでくださいね」
無駄だろうと思いつつ一応言ってみる。
『うん』と、頷いたは、八戒が食べ終わるまで邪魔にならない程度の話し相手をして、水枕を用意して部屋を出て行った。
「ちょっと無茶しちゃいましたかねえ……」
「キュウ……」
そのしわ寄せがに向かってしまうのは避けたかったのだけれど……
「心配してもらえるのが嬉しい……なんて、言ったら怒られちゃいそうですね」
「キュー」
人であったなら『シー』と、口に指でも立てていそうなジープの声。
「はい。おとなしく寝てます」
氷の入った水枕が気持ちいい。
八戒は早く体調を戻さなくては、と、思いながら目を閉じた。
その後もは、洗濯や買出しの合間に顔を出しては氷を取り替えてくれたし、もちろん昼食も運んでくれた。
今は、八戒の部屋で、洗濯物にアイロンをかけている。
空が曇ってきたから半渇きの状態で取り込んだそうだ。
八戒以外の四人は一つの大部屋になってしまったから、部屋に干すと乾く前にタバコの臭いが染み付いてしまいそうという理由で、宿からアイロンを借りたという。
ここでかけているのも落ち着いて作業を進める為。
それらの判断は八戒から見ても正しかった。
別に大きな音がするわけでもないし、騒がしいと思われる四人部屋でアイロンを使ってうっかり火傷などされても困る。
熱っぽく潤んでいる八戒の目に、くるくる動く白い手が妙に印象的に映っていた。
きれいな手。
でも、それだけではない。
働く苦労も知っているし、敵に立ち向かって戦う強さも、その敵に対しても致命傷を与えずに戦闘不能にする慈悲も持っている。
きれいで、働き者で、強くて、優しい手だ……
昼食後の眠気にウトウトする頭の中でそんなことを考えていた。
……雨音が耳鳴りみたいだ……
(ここはどこだろう……?)
何もない真っ暗な空間に温く重く纏わり付くような空気。
雨の音だけがやけに大きく聞こえて、煩くて、腹部の古傷が疼く……
(ああ……もしかして……)
『地獄』だろうか?
何も無くて、誰もいなくて、犯した罪に責め続けられるのなら……
それが罰なら……
(ある意味、僕にはふさわしい場所なのかもしれませんね……)
自嘲交じりのため息をついた八戒は、ふと、何かが自分の手に触れているのを感じた。
暗くて見えないけれど、人の手のようだ。
手の甲を包むように軽く握る手が、くい、と動く。
まるで、こちらへ来いとでも言うように。
行くあてなどない。どうなっても別に構わない。
誘われるままに進んだ。
ずいぶん歩いた気がするのに、まだ手は引かれている。
「……どこまで行くんですか?」
思わず問いかけてみたけれど、返事はない。
代わりに、あれほど煩かった雨音が少し静かになっているのに気付いた。
そして、疼いていた傷の痛みが治まっていることに。
「あなたは、誰なんですか?」
やはり返事はないけれど、目の前に光が――いつかどこかで見たような黄金が――現れた。
聞こえてきたのは、一切の迷いを撃ち殺すような曇りの無い声。
目に飛び込んできたのは、悟浄、三蔵、悟空の顔。
そして――
ハッと、目を覚まして、八戒は自分が眠っていたことを知った。
(――夢……だったのか……)
窓の外から静かな雨音。
あんな夢を見たのは、この雨のせいだろうか?
「起きた?」
声を掛けられて、がそこにいることに気付く。
「……僕、眠ってたんですね……」
「うん。よく眠ってたよ」
そして、夢の続きのようなその感触。
「……手……」
「ん? なぁに?」
八戒の手の上には、の手がそっと重ねられていた。
「……手、ずっと、こうしててくれたんですか?」
「うん、なんとなくね……
八戒みたいに気功で治療ってわけにはいかないけど、『手当て』っていうでしょ?」
は『手当て』という言葉の語源のように、手を当てることで、少しでも回復の手助けができれば……と、思ったのだと笑った。
「……ありがとうございます……」
その気持ちが嬉しい。
そして、この手は……
連れてきてくれた。あの昏い夢から、この現実へと。
「お礼なんて言わないでよ。効力なんてあるわけないんだし」
そう照れくさそうに言いながら、が手を離してしまったことを寂しく思ってしまったのは我侭というものだろうか?
しかし、一旦、離れた手が、今度は額に当てられた。
「熱は下がったみたいね」
柔らかな、やさしいぬくもり……
「お蔭様で……」
そう返事をすると、はにっこりと笑った。
手が届きそうなほど近くにあるのに、決して手を出すことはできない、恐らくは手に入れることはできない笑顔。
しかし……触れられなくても、時に痛みを伴っても、そこにの笑顔がある倖せ。
に手を差し伸べる人物は他にいるけれど、の手を引くのは自分の役ではないけれど……
だけど、今は……せめて、旅をしている間は……
――僕の近くで、手が焼ける不良園児たちの世話を手伝ってもらってもいいですよね……? ――
end