優しい人

宿の部屋。
ユニットバスから出た八戒は小さくため息をついた。

(やっぱり降ってきちゃいましたか……)

ガラス窓越しに聞こえる雨音。

上背のある自分には決して広くはないとはいえ湯船に浸かってのんびりとくつろいでいた気分が、重くなる。

……雨の夜は苦手だ……

「でも、寝るにはまだ早いんですよねえ……」

少しでも気分を換えようと声に出し、コーヒーを淹れてソファーに座り本を開いた。

――帰ろう。花喃……僕が守るから…――

――もう…――

その人の右手が身体に伸びた。

(ダメだ!)

この手は剣をとり、自らの命を絶ってしまう――

「花喃!」

無意識のうちに名を叫び、手首を掴んで引き寄せた。

「きゃっ!」

聞こえたのは花喃のものではない声。

(あ……)

「八戒?」

目に入ったのはその声の主の驚いたような顔。

……」

まだ聞こえている雨の音。宿の一室。
ソファーに座った自分。半分跳ね飛ばされた毛布。

いつの間に眠っていたのだろう?

あんな夢を見たのは雨のせいか……

自分の手がの手首を握ったままなことに気付いて離す。

「すみません……寝ぼけてたみたいです」

「八戒がうたた寝なんて珍しいね」

そう言って、は『気にしてないよ』というふうに笑った。
何故、ここにいるのだろう?

「……何か、用だったんですか?」

「本、貸して貰えたらなって思って……」

「ああ、じゃあ……これ、どうぞ」

ソファーの上に落ちていた本を拾って渡す。

「読んでたんじゃないの?」

「前に読んだ本ですし、今日はもう寝ますから」

「そうね。早く寝た方がいいかも……
疲れてるんじゃない? 声かけても起きなかったし」

「それで毛布を?」

は苦笑した。

「掛けようとしたら起こしちゃった……ごめんね」

そして、自分はその手を掴んで驚かせてしまった。

「お詫びに、淹れ直すね」

ほんの少し口をつけただけですっかり冷めてしまったカップをが手に取る。

(何も訊かないんですね……)

あの時、名を叫んだのは夢の中だけではなかった。
に聞こえていないはずはない。

何も言わないまま、何も訊かないまま、コーヒーを淹れる後ろ姿をつい見つめてしまっていた。

「ん? なに?」

振り向いて訊いたがコーヒーを運ぶ。

「いえ。なんでもありません」

「あ、寝る前にコーヒーはマズかったかな……?」

「いいえ、大丈夫ですよ。ミルクも入ってますしね」

「良かった……」

がホッと安心したように息を吐きながら微笑んだのは、本当はコーヒーのことではなく、その時になってやっと、八戒が笑ったから。

「人に淹れてもらうコーヒーは美味しいですね」

「そう? 私で良かったらいつでも淹れるわよ?」

「ええ、これからもお願いします」

「うん!」

にっこりと頷いたを八戒は複雑な気分で見ていた。

雨音に揺り動かされる感情が今までと少し違うのは、目の前にこの笑顔があるから。

昔と今が交錯した、奇妙な気分だった。

『飲んだらちゃんとベッドで寝てね』からかうように言って、は部屋を出て行った。

もう少し一緒にいて欲しかったような、でも、傍にいるのは辛いような不思議な気持ちだった。

があんなセリフを残したのは、そんな複雑な気分を悟られていたのだろうか?

カップに残っていたコーヒーを飲み干すと、ミルクが入っているのに苦いような、砂糖は入っていないのに甘いような不思議な味がした。

end

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