触れる
暗く静かな室内に、ため息の音が響いた。
今日は全員一人部屋なので誰かに聞かれる心配はないけれど、だからこそ、つきたい放題になっているため息は、吐かれるごとに部屋の空気もの気分も重くしていた。
ベッドには入っているものの、眠れない。
窓の外からは絶え間なく降り続ける雨の音が聞こえている。
だから眠れないのだ。
ため息が出てしまうのだ。
冴えたままの目を凝らしてみても、闇の中には何も見えない。
大きく吸い込んだ空気が、また、ため息として吐き出された。
寝返りを打って目を閉じる。
その瞼の中に今までに見た雨の夜の三蔵の姿が浮かんだ。
(……ちゃんと眠れてるかな……?)
雨の日の三蔵は寝つきも悪そうだった。
(……嫌な夢とか見てなきゃいいんだけど……)
眠っていても、苦しそうにうなされていた時もあった。
(……早くやめばいいのに……)
雨の音はまだ聞こえている。
三蔵が雨を嫌う理由は知らない。
気にはなるけれど、訊くことなんてできない。
訊けばきっと、三蔵に辛い事を思い出させてしまう。
自分も雷が嫌いな理由を人に話したことはあまりない。
この旅に加わってから早い段階でそれを口にしてしまったのは、たぶん、相手が三蔵だったからだ。
何故か『この人には聞いて欲しい』と思った。
自覚はなかったけれど、きっと、あの時、既に三蔵は自分にとって特別な存在になっていたのだろう。
でも、だからといって、今の自分が三蔵にとってはまだ特別になれていないなんて結論づけるつもりはない。
相手が誰であれ話したくないということもあるだろう。
事実、自分もまだ三蔵にも話していないことはたくさんある。
何かよほどのきっかけがあったり、必要に迫られることでもない限り、楽しい話題にはなりえないようなことをわざわざ話すことはないのだ。
昔のことを訊けないのは、三蔵だけじゃなく、悟浄や八戒もで、理由も同じだ。
悟空のことは三蔵に訊いて教えてもらったけれど、ルール違反のような気がして今でも少し後ろめたい。
もし、本人から過去のことを話し出すようなことがあるならば、きちんと聞いて受け止めたいと思うけれど、今までにそういう機会はなかった。
怖いのは……理由を知らないことで、無自覚に皆の過去の傷に触れるような言動をしてしまうことがあるかもしれないということだ。
だから、それを避けるために、可能ならば知っておきたい。
だけど、訊けない。
そして、何より悲しいのは、知ったとしても、胸に納めておくことしかできないだろうことだ。
思いを巡らせるごとに溜まっていく無力感が、また、ため息として零れた。
聞こえ続ける雨音が恨めしい。
その夜、が眠れたのは明け方も近くなってからだった。
翌日の午後、は宿の自室のドアの前に立ち、部屋から出るかどうかを悩んでいた。
両手でその包みを大事そうに持ったままで。
雨は昼過ぎになってようやくあがった。
これから発っても今夜の野宿が確定するだけなので、出発は明日ということになった。
午前中、八戒と悟浄、悟空の三人は雨の中を買い出しに出掛け、その間、洗濯をしたは宿から借りたアイロンでそれらを乾かした。
三蔵は部屋に篭ったままで、やっと姿を見せた昼食の時もあまり箸は進んでいないようだった。
(今は機嫌もマシになってるんじゃないかと思うんだけど、どうかなぁ……?)
ちらりと見た窓の外は明るく、よく晴れている。
(お腹、空いてるんじゃないかなぁ……?)
そう思いながら視線は手の中の包みに落ちていた。
この町に着いて宿が決まるまでの間に見かけたお店の場所を覚えていたから、三蔵にと思ってさっき買ってきたのだ。
(せっかく買って来たんだし……)
目を閉じて一度大きく深呼吸した後、はドアを開けて部屋を出た。
とにかく気になって仕方ないのだ。
は三蔵の部屋に向った。
ノックをして声を掛ける。
「三蔵? 開けるよ?」
返事を待たずにドアを開けると、三蔵はこちらに背を向けて窓辺に立っていた。
「なんの用だ?」
後姿なのは変わらないまま、声だけが返ってきた。
「薄皮饅頭、買ってきたの。食べない?」
できるだけ普段どおりに、不自然でない程度に明るい声を出したつもりだったのだけれど、
「……今はいい」
振り向きもしないまま素っ気無く言われてしまった。
返事はしてくれるのだから、機嫌が悪いというほどではないのだろうけど、それでも、まだ、饅頭を茶請けに茶を啜る気分ではないらしい。
「そう……じゃあ、テーブルに置いとくから、後で食べて」
はそう言って部屋の中ほどまで進み、饅頭の入った包みをそっとテーブルの上に置いた。
そこから視線を上げて見てみても、三蔵はずっと微動だにしていないようで、は形容し難い気分になった。
『寂しい』でも『悲しい』でもない。
『放っておけない』というのともちょっと違う。
無意識のうちに身体が動いていた。
足早に三蔵に近づき、その背中に頬をつける。
そして、腰に腕を回してそっと抱きついた。
「……何の真似だ?」
訊いて来た三蔵の声に不機嫌な色は見えないけれど、だからと言って歓迎してくれているようでもなく、感情が読めない。
「昨夜の夢見が悪くて、なんかテンション上がんないの。
ちょっと、このままでいさせて……そしたら元気になれるから」
昨夜は夢なんて見ていないけど、テンションが上がらないのは本当だ。
そう答えてはぎゅっと腕に力を込めた。
三蔵が軽くため息をついたのが身体の振動からもわかった。
は振り払われることも覚悟したけれど……
「勝手にしろ」
三蔵はその短い一言で許可してくれた。
「ありがと……」
は安心して目を閉じた。
そして、わかった。
さっきの衝動は『触れたい』というものだったのだ。
こうしていても、三蔵の心にまで届くわけではないのはわかっているけれど、せめて、感触や体温を伝えたかった。
一人ではないのだと思って欲しかった。
しばらくそうしていると……
(え?)
三蔵に抱きついているの手に三蔵の指先が触れた。
とくんとの心拍数があがった次の瞬間、
「痛っ!」
は三蔵の身体から腕を外し、更に一歩後ずさってしまった。
三蔵の指が、の手の甲を抓ったのだ。
「痛いじゃない! もう〜!」
が文句を言うと
「いつまでも、ひっついていやがるからだ」
三蔵は悪びれもせずに言って、やっと振り向いた。
そして、手をさすっているに命じた。
「茶を淹れろ」
「お茶?」
にはその命令が唐突に感じられて思わずおうむ返しに聞いてしまった。
「……饅頭があるんだろう? お前も食え」
そこまで言われて、やっと、理解できた。
「うん!」
笑顔で明るく頷いて、はお茶を淹れ始めた。
その背後からは三蔵が饅頭の包みを解いている音が聞こえてくる。
――少しは気持ちが伝わったということだろうか……――
とても嬉しい気分で湯呑みにお茶を注ぎながら、同時には祈らずにはいられなかった。
――温かいお茶と甘いお饅頭が、もっと三蔵の気分を変えてくれますように――
そして、
――いつか三蔵の心に触れられる時が来ますように――
end