悪戯
その時、は団扇代わりに掌をパタパタと動かして自分を扇ぎながら、宿の廊下を歩いていた。
町に着いて買い出しをしながら宿を探して、部屋で一息ついた後、洗濯をしに行った。
今はその帰りだ。
これなら夜までには乾くだろうと思わせてくれる天気の良さは有り難かったが、照りつける午後の太陽の下で洗濯物を干すのは暑かった。
(……喉、渇いたなあ)
洗濯を始める前、部屋に落ち着いた時にも買ったばかりの冷たいお茶を飲んだけれど、身体はまた水分の補給を求めている。
(なに、飲もうかな?)
スポーツドリンクの類は買ってなかったし、今は少し甘い物が飲みたい気分だ。
アイスカフェオレが飲みたいところだったけど、買い出しの時、牛乳が売り切れで買えなかった。
(アイスコーヒーにガムシロでいいか)
ロックアイスは買ったし、ガムシロや水でアイスコーヒーが作れるインスタントのポーションもある。
ちゃんと豆で淹れたコーヒーの方が美味しいのはわかっているけど、暑い時には手軽に作れる冷たい飲み物の方がいい。
(うん、そうしよ!)
三蔵にも作ってあげよう。
同室の三蔵は今頃、きっと新聞を広げて寛いでいるはずだ。
一緒に飲めば、インスタントのコーヒーでも美味しく感じるかもしれない。
そう思いながら部屋へと向かうの胃は『アイスコーヒーを飲むつもりの胃』になっていた。
「ただいま」
言いながら部屋に戻ると、やはり三蔵はテーブルで新聞を読んでいた。
短く『ああ』という声が返ってくる以外、特にリアクションがないのはいつものこと。
は手を洗って三蔵に声を掛けた。
「アイスコーヒー作るけど、飲む?」
「……ああ」
新聞に見入ったままの三蔵の返事は上の空のようにも聞こえたけど、一応、確認はとった。
作っても問題はないだろう。
は作業に取り掛かろうとして、テーブルの上のそれに気付いた。
「あれ? 三蔵、コレ食べたの?」
が見つけたのは、アイスクリームのカップだった。
ミニサイズのそれはもう中身は食べられていて、空のカップに木製のスプーンだけが残っている。
「ああ、お前が洗濯に行ってる間に八戒が持ってきた。
お前の分は冷蔵庫の中だ」
「あ、そういえば買ってたっけ」
買い出し中、悟空にせがまれて、一箱六個入りのファミリーパックを買っていたのだ。
三蔵が先に一人で食べたのは、既にロックアイスが入っている部屋に備え付けの小さな冷蔵庫の冷凍スペースには入らないという判断からだろう。
実際、入る隙間は無かったようでの分のアイスは冷蔵の方に入れられていた。
その為、周囲の部分から溶け始めているようで、触ってみると柔らかくなっている。
(どうしようかな……?)
すっかりアイスコーヒーを飲むつもりでいて三蔵も誘ったけれど、状況としてはこのアイスクリームも早く食べた方がいい。
そして、いい方法を思いついた。
先に三蔵の分のアイスコーヒーを作る。
「ミルクないんだけどいい?」
ストローを挿したグラスにガムシロを添えて差し出しながら言うと、
「ブラックでいい」
三蔵はそう答えて手に取り、グラスの中で氷が涼しげな音を立てた。
は次に自分の分を作り始めた。
手順は三蔵に作った物と同じだったけど、最後の部分が少し違っていた。
氷の上にアイスクリームをのせ、コーヒーフロートにしたのだ。
柔らかくなっていたアイスの一部はコーヒーの中に溶け込み始め、グラスの中に甘そうな層を作っている。
冷たそうで、美味しそうで、いい感じだ。
はテーブルにグラスを置いて、三蔵の向かいに座った。
「いただきまーす」
つい、手を合わせてそう言ってしまったのは、やはりアイスクリームがのっているからだろうか?
まずストローをくわえてコーヒーを一口飲んだ。
少しの糖分を含んだ液体が渇いた喉を潤していく。
次に、アイスをスプーンで掬って口に運んだ。
冷たい塊が舌の上で甘く溶けていく。
(やっぱりフロートにして良かった〜!)
美味しいものを食べたり飲んだりしている時の人間は無条件で幸福だと思う。
は自分の思いつきに満足しながら、もう一口アイスを食べようと手を動かした。
「ん?」
その手を途中で止めてしまったのは、三蔵の視線に気付いたからだった。
「なに?」
新聞から顔を上げた三蔵は目を少し細めて、じっとを見つめている。
「どうかした?」
その真顔にが多少面食らいながら繰り返し訊くと、三蔵はおもむろに口を開いた。
「それ、虫刺されか?」
「え?」
「襟んとこ、赤くなってるぞ?」
「本当?」
は無意識のうちに自分の襟元に手を当てていた。
痒みや痛みはないし、手で触っても特に異常は感じられない。
でも、さっきまでは屋外にいたのだ。
洗濯物を干す時は上を向くことが多いし、気付かないうちに虫に刺されるということもあったかもしれない。
気になるので確認することにした。
立ち上がって、部屋のユニットバスの中に入る。
そこの鏡で見てみると、確かに皮膚が赤くなっている部分があった。
しかし――
はユニットバスから出ながら、つい、大きな声を出してしまっていた。
「これ、三蔵がつけた跡じゃない!」
からかわれたことも面白くないが、それ以上に襟に隠れない部分に跡をつけられていたということが大打撃だった。
こんな『見えている状態』で今日を過ごしていたなんて!
他の三人ともずっと一緒だったし、買い出しもすれば宿の人と話したりもしたのだ。
誰にも気付かれなかった、なんてことはないだろう。
「そうだったか?」
が怒っているのに、三蔵は何食わぬ顔で新聞をめくっている。
は大きく吸い込んだ息を深く吐いて気を静めた。
三蔵はこういう男なのだ。
このまま文句を言い募ってもこちらのストレスが増すだけだろう。
もう取り戻せないことなのだから、あきらめるしかないのだ。
問題の部分に絆創膏を貼ってテーブルに戻ったは
「あーーっ!!」
再び、そう声をあげた。
テーブルの上ののコーヒーフロートから、アイスがごっそり消えているのだ。
犯人は決まっている。
三蔵だ。
「ちょっと! これ、どういうこと?」
問いただすと三蔵は悪びれもせずに答えた。
「早く食わねぇと溶けるだろ?」
「『早く』ってあんなちょっとの間に食べといてそんなこと言う?
第一、ちょっと溶けたくらいが美味しいんじゃない」
「てめぇだけフロートにしてんじゃねえよ」
「三蔵は先にアイスを食べてたでしょ?
それに『ブラックでいい』って言ったじゃない」
三蔵はそれには答えず、しれっとタバコをふかしている。
なんだか情けない気分になってしまったは、怒る気力も失くしてしまった。
「食べたかったんなら、正直にそう言えばいいのに……」
小さなカップアイスだったけど、言ってくれれば二等分することだってできていたのだ。
は仕方なく残されていたコーヒーの部分を飲んだ。
しかし、少しアイスが溶け込んだだけのアイスコーヒーではもう満足できなくなっていた。
久しぶりのコーヒーフロートだと楽しみになっていたのだ。
だが、アイスはもうない。
「……『食い物の恨みは恐ろしい』って知ってる?」
ストローをくわえたまま、すねた口調で言ってみたけれど、三蔵は
「猿みてぇなこと言ってんじゃねえよ」
と、鼻で笑っただけだった。
確かに食べ物のことで喧嘩をするなんて子供っぽくてみっともないかもしれない。
でも、盗み食いする方が余程、幼稚なのではないか?
しかし、まあ、この場は、自分が『大人』になって我慢してやるしかないのだ。
は自分にそう言い聞かせたが、それでも、なかなか気は治まらなかった。
(……今度、アイスの替わりにマヨネーズでフロート作って飲ませてやろうか?)
考えた仕返しが味覚障害の三蔵に通じるのかどうかで悩むだった。
end