唇
いつものように移動中のジープの上で話しながら、ついつい悟浄の視線はのそこに向かってしまっていた。
言葉を発する度に形を変え、笑っては弧を描く唇。
今までこんなに意識して見たことはなかったのだが、今日はやけに気になってしまう。
たぶん、今朝、あんなものを見て、あんな事を考えてしまったせいだ。
――この朝、出発した古い宿はそれぞれに部屋が取れていたものの、トイレや洗面所は共同だった。
起きて、そこへ向かう途中、何気なく目をやった窓から細い路地を挟んだ隣家の玄関先の光景が見えた。
互いに首を伸ばして、軽く唇を触れ合わせている若い男女。
恐らくは出かける夫と見送る妻だろう二人は自分たちと同年代に見える。
そのラブラブな感じから新婚さんの微笑ましい朝の一幕といったところか。
(朝っぱらから見せ付けてくれるよなー)
軽くため息をついて洗面を済ませ、顔を拭いていたら正面の鏡に映った自分の唇に目がいった。
(そーいやー、ここんとこずっとご無沙汰だよなー)
ナンパに出かけてもなかなか声を掛けたくなる相手を見つけられない事が続き、最近はナンパ目的で出掛ける事も少なくなってしまった。
当然、誰かと肌を触れ合わせる事も唇を重ねる事もない。
人肌の温かさや女の柔らかい感触が懐かしくも思えた……
ナンパができなくなったのは……
一番触れてみたいのは……
だから、今日は意識してしまう。
の唇を……
夕方、次の街に着いて部屋がとれた宿の食堂で食事を摂っている時にも、悟浄の目はの唇を追っていた。
薄すぎず厚すぎず形の良いの唇は、紅を引いているわけでもないのに紅くつややかでとても柔らかそうだ。
そして……
(なんか食ってる時の口って結構、エロいよな……)
箸でつまんだ料理を送り込む直前の口の開き方というのはとても無防備だ。
咀嚼の途中で口の中に唇を引き込んだり、小さく舐めたりする様子が妙に艶めかしく見える。
春巻きに齧り付かれた時は、危ない妄想にとりつかれそうになった。
「悟浄、なに?」
悟浄に見られている事に気付いたが訊いてきた。
一瞬、自分のスケベ心を見透かされたような気がして内心慌てた悟浄だったが
「いや……美味そうに食うなー、って思ってよ」
苦し紛れに言ったセリフに
「だって、美味しいもん」
と、普通に返されて、ホッとした。
(……危ねー……)
このところのナンパ不足が招いた妄想は、はもちろん他の連中に気取られてもマズい。
口をつけたグラスのビールと一緒に身体の奥に流し込んだ。
すべての原因である異性との接触不足を解消しようと、食後、一人で出掛けた悟浄だったが、成果は得られなかった。
この町は少々さびれている事もあり若い世代の人口が少ないようで、声を掛けたくなる相手を見つけることもできなければ、遅くまで遊べるような場所もなかったのだ。
仕方なく宿に戻って、だが、部屋に戻る気にもなれず、ロビー階段横の喫煙スペースでタバコをふかしていた。
(そーいやー、前に一度だけ、チャンスはあったんだよなー……)
いつだったか、眠っているにキスしようとした事があった。
あの時は三蔵に邪魔をされて未遂に終わり、自分自身、寝ている相手に手を出そうとした事を恥じたものだったが、今にしてみれば、あれは千載一遇の絶好のチャンスだったのかもしれない――という気になってしまうから不思議だ。
(惜しいことしたよなー)
唯一にして最大の好機を逃してしまった事を悔やみつつ、タバコの灰を灰皿に落とそうとした。
が、タバコが口から離れない。
いろいろ思い出している間、ずっと咥えたままだったフィルターが乾いた唇に張り付いてしまっていたのだ。
強く引いて剥がしたら、
「痛っ!」
ピリッと唇に痛みが走った。
皮が剥けてしまったのだという事はわかる。
唇を舐めたら微かに血の味がした。
(あんな事考えてたバチが当たったか?)
少々反省して、そろそろ部屋に戻ろうかと立ち上がって歩き出したら
「悟浄? 帰ってたの?」
後ろから声を掛けられた。
振り向いて見えたのは風呂上りらしいだった。
宿の浴場で汗を流した帰りだろう。
「ああ。お前はちゃんとあったまってきたか?」
「うん」
今まで考えていた内容が内容なので、少し後ろめたかったが、成り行きで一緒に部屋に向かう事になった。
「ねえ、唇、血が出てるよ?」
「ああ、今、ちょっとな」
出血の理由を説明すると、は
「ジープに乗ってると風があたるから、乾燥するもんね」
と、納得し、
「リップクリーム塗ったら?」
と、勧めてきた。
「はあ? ンなもん、ちまちま塗れっかよ!?」
一瞬、頭に浮かんだリップクリームを塗っている自分の図があまりに情けなく、速攻で否定したが、親切で言ってくれたろう相手には少々キツい言い方になったかもしれなかった。
「ま、キスで移ってくる分には大歓迎だけどな」
フォローのつもりで、軽く茶化してごまかす。こういうのは得意だ。
「もう……」
苦笑するは、それでも、タバコを吸ったくらいで皮が剥けるほど荒れているのならとりあえず何とかした方がいいと、持っていたポーチの中から何かを取り出した。
「はい、これ。あと少ししか残ってないけどあげる。
ずっと使う気がないなら、これで十分でしょ?
私は次のをもう買ってるから」
差し出されたのはリップスティック。
「オリーブオイルが主成分で、メントールとかは入ってないから傷に染みたりはしないと思う。寝る前にこっそり塗ってみて」
皆には黙っておくから、とまで言われて、半ば仕方なく受け取った。
「確かに、キスした時、相手の唇が荒れてちゃ興醒めだしなー」
「それしか考えらんないの?」
そんなふうに話しているうちに部屋に着いた。
「お帰りなさい。思ったより早かったですね」
そう迎えられた今日の部屋は五人一緒の大部屋。
風呂でも入るかと、悟浄が荷物から着替えを取り出している横で、は自分の荷物に、脱いだ服や持っていたポーチをしまっていた。
さっき歩きながら聞いた話によると、ポーチはに持たされたもので、中には基礎化粧用の化粧水やら乳液やらが入っているそうだ。
ふと、思いついて言ってみた。
「なあ、お前って口紅とか塗んねーのな」
「ああ、うん。前にさんにも言われたんだけど、こんな旅の中でお化粧するのってなんかちょっと抵抗があって……」
確かには素顔でも十分見られる容姿をしているし、下手に化粧荒れしていない分、肌もキレイだ。
しかし……
「ふーん……でもさ、こういうの知ってる?」
「何?」
「『スッピンの唇の色は ピ××× の色』って話」
言葉を失って真っ赤になったの顔が目に入った次の瞬間
ドカッ! バキッ!! ガゴッ!!!
蹴りや鉄拳が降り注いで悟浄は撃沈させられた。
「な、な、なんて事ゆーんだよ!? エロ河童ー!」
非難のセリフを口にしながらも顔が赤くなっている辺りが悟空らしい。
「教育的指導。二度とこんな発言はしないように」
いつもと大して変わらない口調でも、その八戒の無表情が怖い。
「死にてぇらしいな、貴様は」
言う三蔵は銃を手にしている。
殴ったのは拳ではなくグリップの底部だったのだろう。
と距離が近かった為に発砲されなかったのは悟浄にとっては幸運だった。
「バカッ!! もう知らないっ!!」
当のは真っ赤な顔をしたままそう声を張り上げ、飛び込む勢いで自分のベッドに入って頭から毛布を被った。
「あ〜あ、怒らせた」
「この分じゃ、明日、口をきいてもらえないかもですねえ……」
「いっそ、このセクハラ河童の口を永遠にきけなくしてやった方がいいな」
一日、不埒な事を考え続けていたツケがまわった失言と当然の報い。
(はいはい、全部、俺が悪かったよ……)
物言えば唇寒し秋の風
リップクリームでの間接キスで我慢するしかない悟浄だった。
end