熱

カタン!

「熱っ!!」

その音と声に三蔵は読んでいた新聞から顔を上げた。

転がった湯呑み。こぼれた茶。左手を押さえている

茶を淹れていて湯呑みを倒し、手に掛かってしまったことは瞬時に理解できた。

「何、突っ立ってやがる。早く冷やせ!」

言いながら立ち上がった三蔵は、手の甲が赤くなっているの左手首を掴んでユニットバスまで連れて行き、蛇口を捻って患部を流水に晒した。

「……ありがとう……」

「これぐらいのことは自分でちゃんとしろ」

言った後で、ふと、不思議に思った。

なら軽い火傷の応急手当の方法くらい知っているはずだ。
何故、自分で動かない?

「うん……ごめん」

少し沈んだ声で返事をする横顔を見て気づいた。

顔が少し赤い。
掴んでいる手首がいつもより暖かい。

「お前、熱ないか?」

「……言われてみれば、ちょっと熱いかなぁ……?」

額に手を当ててみるとやはり熱かった。

「これは『ちょっと』どころじゃねえだろうが」

三蔵はため息をついた。

茶をこぼしたのも、火傷をして咄嗟に動けなかったのも、熱のせいで注意力や判断力が低下していたせいだろう。

自分たちの足手まといになることを嫌うは、少々体調が悪くてもそれを悟られまいと無理をするきらいがある。

そのことはわかっていたのに気づいてやれなかった。

「もう寝ろ」

三蔵は水を止めて、をベッドへと追いやった。

「具合はどうですか? 今の体温は?」

部屋に解熱剤と体温計を取りに来た三蔵から、のことを聞いた八戒は水枕を用意して二人の部屋を訪ねた。

「……38度4分……」

「ひょっとして日中から調子が悪かったんじゃありませんか?
ダメですよ、無理しちゃ」

「……平気だと思ってたんだもん……」

控えめに認めたはしゅんとしている。

きっと、体調を崩してしまった自分を責めているのだ。
これ以上叱るのは止めておいた方がいいだろう。

八戒も自分からは不調を訴えたがらないのクセは知っている。
気づけなかった自分を責めながら、とりあえず手の火傷を気功で治した。

「風邪のような症状はありませんし……
野宿の後で炎天下の岩場を歩いたりしたから、きっと疲れが出たんでしょう。
とにかく今夜はゆっくり休んでください。時間を見て、水枕、取り替えますから」

「うん……面倒掛けてごめんなさい」

「面倒だなんて思ってませんよ」

「……ありがとう……」

赤い顔で少し荒い息を吐きながら目を潤ませているの額の汗を拭いてやってから、八戒は席を立った。

そして、

「と言うことで、今夜はゆっくり、ぐっすり眠らせてやってください」

部屋を出る前に三蔵に言い残すことも忘れなかった。

(余計なクギ刺しやがって……)

いくら今のの風情が劣情を誘うようなものであっても、それくらいの理性は持ち合わせているつもりだ。

イラついてタバコを取り出そうとした手を途中で止めた。

「吸ってもいいよ、タバコ」

「……吸わねえよ……」

「……大丈夫だから、三蔵も寝て」

「お前の言う『大丈夫』は信用できん」

『寝てろ』と言ったのに、は三蔵が部屋を出ている間にこぼした茶の後始末をしていた。

横になった途端ぐったりとしてしまったくせに、拭いた布巾を洗うくらいなら自分の額に濡れタオルでも当てていろというものだ。

「とっとと寝て、早く治せ」

そう三蔵に見つめられて、はまた熱が上がった気がした。

(心配してくれるのが嬉しいなんて、不謹慎かな?)

さっきも、火傷した甲よりも掴まれた手首の方がよほど熱く感じた。

(三蔵にそばにいられると、私の熱は下がらないよ……?)

目を閉じても三蔵の視線を感じる。
飲んだ薬が誘う眠気の中で、はしみじみと倖せを感じていた。

(おやおや……)

深夜、の水枕を取替えに来た八戒は、のベッドサイドで椅子に座ったまま眠っている三蔵の姿にため息をついた。

(これであなたが風邪なんか引いたら、思いっきり笑ってあげますよ?)

起こさないように三蔵に毛布を掛け、の枕を取り替える。

そっと額に手を当てるとの熱はだいぶ下がってきていた。

これならきっと、朝には元気な笑顔が見られるだろう。

そして、音を立てないように部屋を出た八戒は、明日なんと言って三蔵をからかってやろうかと考えてはクスクスと笑うのだった。

end

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