涙
「すみません。遅くなりました」
言いながらキッチンに足を踏み入れた次の瞬間、八戒の心拍数が上がり、身体の動きも止まってしまった。
八戒の声に振り向いたの両目から大粒の涙が零れていたのだ。
「お疲れ様。もう使えるのかな?」
そう言うは笑顔を作っているものの涙声だ。
「……あ、ええ」
金縛り状態の八戒はの問いに答えるのが遅くなってしまい、も八戒の様子に気付いたらしい。
慌てたように涙を拭いながら言った。
「たまねぎが目にしみちゃって……」
――今日の宿は自炊もできるコテージだった。
宿が決まってからその備品を見て夕食のメニューを決め、買い出しに出かけた。
カレーを作ることにしたのは大きな寸胴鍋があったからだ。
大量に作れば悟空の胃袋も満足してくれるだろう。
しかし、いざ、台所に立ってみると、コンロの火が点かなかったのだ。
ガスの元栓は開いているし、点火用の火花も出ている。
自分たちの使い方が間違っているわけでもなさそうなので、コテージの管理者に問い合わせてみることにした。
丁度その頃、洗濯物を干し終えたが手伝いにやってきたので、八戒はに下ごしらえの続きを頼み、その場を離れたのだった――
の手元を見ると正にたまねぎを切っているところだった。
まな板の上にはサラダ用と思われるスライスしたものがのっている。
まな板の横のバットにはカレー用のものもあった。
くし切りとはいえ十人前は下らない量だ。
「ああ、これだけ切れば目にもくるでしょう。後は僕がしますから」
たまねぎ以外の材料ももう切ってあるので後は調理するだけだ。
「そう? じゃあ、洗濯物の様子見てくるね」
はそう言って包丁を置いた。
今日も日差しは強いので、もう乾いているものもあるかもしれないし、長時間、今の時期の日光にさらすのは生地の劣化にもつながる。適切な判断だ。
外に出て行くの後姿を見ながら、八戒は軽くため息をついて微笑んだ。
コンロの火が点かなかったのはボンベが空になっていたためだったが、客が多い時期は管理人も忙しいらしく、まず管理人を見つけるのにも時間が掛かってしまった。
管理人に事情を説明してからも替わりのボンベを取りに行くのを手伝ったりして、戻るのが遅くなった。
その間には米を研いで炊飯器にセットし、カレー用、サラダ用の材料を切っていた。
休んでもいいだろうに、こまめに動くところがらしいと思う。
その後、洗濯物を取り込んだが再び手伝いにきたが、八戒は丁重に断った。
このキッチンは二人で作業するには少し狭いし、火も使っているので暑い。
には少し休んでいて欲しかった。
『いいの?』と遠慮しながらもキッチンを後にしたの素直さが有り難かった。
一人でカレーを作りながら八戒は、知らず知らずのうちにのことを考えていた。
(さっきは驚いちゃいましたね……)
泣いているを見るのには慣れていないので、どうしても少しうろたえてしまう。
元々、は人前では泣きたがらないところがあるらしい。
自分たち四人の前で泣いたことも何度かあるけれど、それだけ自分たちに心を許してくれるようになったのだと思う気持ちよりも、泣かないで欲しいと願う気持ちの方が大きい。
は笑顔の時が一番、綺麗だと思うから……
泣いているを見てしまったら、きっと、『泣かないでください』と言ってしまうだろう。
三蔵と二人きりの時には泣くこともあるようだけど、それは、想い合う相手だからこそなのだと思う。
そう、の涙を受け止める胸は他にあるのだ。
(たまには僕の前で泣いてもらってもいいんですけどね……)
しかし、は自分の前では絶対に泣くまいとするだろう。
たぶん、泣いているところなんて見せたら、最も心配をかけ、気を遣わせてしまう相手は自分なのだと思っている。
の気遣いなのだということはわかっているけれど、たまには自分にも甘えて欲しいと寂しく思ってしまうのは身勝手だろうか?
(……感情というものは本当にやっかいですね)
くつくつと煮える鍋の横で使い終えた調理器具を洗いながら、八戒は自分の我侭な思いも一緒に洗い流した。
キッチンにカレーの匂いが漂いだした頃、またがやってきた。
「カレーはもう出来上がる頃でしょ?
サラダは私が作るから、今度は八戒がゆっくりしてて」
その心遣いが嬉しくて、八戒は甘えることにした。
「ええ、ありがとうございます。
あ、その前に味見をしてもらえますか?」
八戒が差し出した少量のカレーが入った小皿をが受け取り口をつける。
八戒は『美味しい』という笑顔を期待していたのだが……
「んっ!」
はギュッと両目を閉じ変な声を上げた。
「八戒! これ、すごく辛いよ!?」
「え!?」
そんなはずはないと思いながら八戒も味を見てみたが、やはり辛かった。
何処で失敗したのかと記憶を巻き戻す。
そして思い当たった。
「あー! これを入れるのを忘れてました!」
冷蔵庫を覗くと、入れる予定だった生クリームのパックがそのままある。
取り出して、早速、鍋に注ぎ込んだ。
「え? 真っ白になっちゃったけど大丈夫なの?」
「ええ、なじめば色も戻りますし、味もまろやかになります。
これを入れるから最初は辛く作っておくんですよ」
「そうなんだ〜。うん、コクも出そうよね」
二人で覗き込んでいるうちに、鍋の中身はカレー本来の色に戻っていった。
「これで味も大丈夫のはずです」
八戒は再びに味見をすすめ、
「うん。美味しい」
「良かった」
今度はにっこりと笑ったに安心した。
「八戒でもうっかりすることなんてあるのね」
は珍しいものを見たような口調で言って笑う。
「ちょっと考え事をしていたもので……」
まさか『あなたのことを考えていた』なんて言えないけれど、今のこのの笑顔を独り占めできるのは悪くなかった。
たまにはドジもしてみるものだ。
「最初は辛くて、涙、出てきちゃったもん」
「すみません」
笑いながら言うに苦笑を返しながら、八戒は思っていた。
――やっぱり、には涙より笑顔が似合いますね――
end