過去

一人ずつ部屋が取れた宿の夜。
は小さな頼み事があって、八戒の部屋を訪ねた。

ノックをして名乗ると、開かれたドアから現れる穏やかな笑顔。

「シャツのボタンが取れちゃったの。ソーイングセット貸して……
っていうか、ここで付けさせてもらってもいいかな?」

ボタンを一つ付けるくらいならすぐに終わる。借りる時と返す時、二度の往復をするよりは八戒の部屋で付けさせてもらう方が無駄がない。

「ええ、どうぞ」

快く部屋へ通してくれた八戒は早速、荷物から裁縫道具を取り出してくれた。
手間を掛けさせているようで、はなんだか申し訳ない気分になる。

「私も自分用に小さなソーイングセット持ってた方がいいかもね」

テーブルに座り、針に糸を通しながら言うに、

「まあ、安く売ってるのもありますからそれも悪くないでしょうけど、どんな理由であれ、が部屋を訪ねて来てくれるのは、嬉しいことですよ」

八戒は『気にしなくていいんですよ』という風に笑いながら言って、お茶を出してくれた。

「ありがとう」

その優しさが嬉しかった。

「八戒とジープは明日のルートの確認してたの?」

が座ってボタンつけの作業をしているテーブルの半分は広げられた地図で埋まり、その横にはジープがいた。

「ええ。実際の地形が地図とは違っている事もありますからね。
進む道以外の部分も多少は把握してないと……
明日は山を越えることになりますし」

「考えてみれば、運転するのって大変よねえ……」

運転せずただ乗っているだけの自分たちは居眠りしたりも出来るけど、八戒はそうはいかないし、運転するのにはそれなりに集中力も使うだろう。

「いつもありがとう」

「いえいえ、僕の仕事ですからね。
それに負担に感じた事なんてありませんよ」

「もう随分長い距離を走って来たんでしょ?」

「そうですねえ……なんだかんだで行程の半分は過ぎてますから……
ちょっと待ってください」

そう言って八戒は荷物の中からもう一枚地図を取り出した。

拡げられたそれを見てみると桃源郷の全体図だった。

「ここが長安で、今いるのが……このへんになりますね」

「うわー! こんなに走ってきたんだ! すごいねー!」

かなりの長距離だというのはわかっていたけど、地図上とはいえ、目で見ると改めて感心してしまう。

「ジープ、頑張ってきたんだね」

言いながら一緒に地図を覗き込んでいたジープの頭を撫でると、ジープは

「キュウ〜」

照れくさそうな声で鳴いた。

「八戒も本当にお疲れ様……」

声にしながら、自然と頭が下がってしまった

「一日一日の積み重ねですから、そんなにすごい事をしてる意識はないんですけど……そんな風に言われると、なんだか照れますね」

八戒も照れるように笑った。

「こんなに旅してたなら、いろんな事があったんだろうね」

が自分の知らない皆の時間に思いを馳せながら呟くと

「ええ、本当にいろいろなことがありました……」

八戒は旅の思い出話をいろいろと聞かせてくれた。

初めて刺客に襲われた宿のこと。
三蔵に麻雀を教えてくれと頼んだという岩山にある寺の少年僧のこと。
洗濯をしながら妖怪である恋人の帰りを待っている女の人のこと。
砂漠で砂に埋まりそうになって大変だったこと。
小さいのに高いところから飛び降りた勇敢な女の子のこと。
自分たちのコピーの式神と戦ったこと。

ボタンつけはとっくに終わっていたけれど、話が面白くて、昔の事を教えてもらえるのが嬉しくて、は夢中になって聞いていた。

そして、思った。

――話題にしたくない辛いこともあったんだろうな……――

自分だって、一人で旅をしていた間のことはあまり話していない。
もちろんいい事や嬉しい事もあったけど、そうじゃない事の方が多かった。

でも、皆に出会って、辛い事も悲しい事も含めた全ての過去があったからこそ、『今』があるのだと思えるようになった。

それでやっと、今までにあった出来事全てをそのまま受け入れる覚悟ができた。

雷の夜にうなされることが少なくなったのも、そのお陰だった。

過去に起こったことの全てを知ることなんてできないし、そんなことは望まないけれど、その過去があったおかげで自分は皆と出会えたし、今、自分が一緒にいたいと願う皆を作ったのもその過去なのだ。

運命の不思議、邂逅の妙、今がある奇跡……

しみじみとした感慨がの胸を満たし温かくしていた。

と会ったのはこの辺りですね」

その八戒の声では再び地図を覗き込んだ。

ずいぶん長く一緒に旅をしている気分だったが、自分が旅に加わってからの移動距離はそれ以前のルートとは比べるまでもなく短い。

「一緒に旅したのって、まだ、これだけなんだね」

少し寂しい気持ちになったが、

「でも、いろんな事がありましたから、そんな気はしませんね。
それに、これからもっと長くなりますよ」

八戒は優しく笑いながら言ってくれた。

「うん。これからも宜しくね」

「こちらこそ」

そう微笑みあって、大きな地図を畳んだ。

願わくは、自分も一緒に過ごす時間が、自分の知らない過去の時間よりも長くなりますように……

end

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