未来

湯呑みに茶を注ぐ音が室内に響く。
それほど静かな夜だった。

「はい、どうぞ」

言いながら差し出した湯呑みが

「ああ」

短い返事と共に大きな手に包まれる。

日常的に何度も繰り返されているやりとりだったが、今のの気分はいつもとは少し違っていた。

三蔵と向かい合って座っているテーブルから壁に掛かっている時計を見ると、午後11時を過ぎた頃。
普段ならそろそろ床につく時間だ。

でも、今夜は夜更かししたかったし、それを伝えた時には面倒くさそうな顔をした三蔵も付き合って起きてくれている。

時間が過ぎて日付が変わる。
そんな当たり前のことが特別に思えてしまうのは今日が12月31日だからだ。

旅の途中だから特別なことなんて何もできない。
宿のある町に着き、屋根のある所でこの夜を迎えられただけでも幸運だっただろう。

皆で賑やかに、とも思ったけれど、あいにく、五人で泊まれる部屋はなく、2−3の部屋割りになった。
あちらの部屋ではワイワイやっているのかもしれないけれど、部屋の位置が離れているのでここまでは聞こえない。

一緒に季節の行事を楽しむことなんて三蔵には期待できないけれど、せめて、新年を迎える瞬間を起きたまま二人で一緒に過ごしたかった。

「静かだね」

「……そうだな」

「明日、初詣とか行く?」

「何の為にだ」

「……年に一度のイベントだから?」

「くだらねえ」

「言うと思った」

そんな暇つぶしの会話が時折、交わされる。
決して弾みはしないけれど、付き合ってもらえるのが嬉しかった。

『何のために』と訊かれて『イベントだから』と答えたけれど、初詣に行ったらお願いしたいことはあった。

旅の無事と、皆の健康。

それから

――皆、一緒に笑顔ですごせますように――

初詣の願い事は人に言ってはいけないと聞いたことがあるから誤魔化したけど。

「来年はどんな年になるかな?」

「さあな。大して変わらんだろう」

「まだ旅の途中だしね」

西へと進む。
年が変わってもそれは変わりない。
でも、同じような日々でも、全く同じなわけではないし、一日ずつ時間を過ごしている自分も少しずつ何かが変わっているはずだ。

先のことなんてわからないけれど、これから始まる年月の中でも、こうして三蔵と向かい合ってお茶を飲めればいいなと思う。

でも、いつまで、それが可能だろう?

旅が無事に終わったら、たぶん、三蔵は長安の慶雲院に戻るのだろう。
その時、自分はどうなるのだろうか?

一人で旅をしている間に慶雲院の噂を聞いたことくらいある。
桃源郷東方一を誇る大寺院で、その分、格式が高く、一般人の立ち入りも許されない。
女の自分なら尚更だろう。

もし、寺の近くに住むことができたとしても、会うことは難しくなるに違いない……

「おい」

声を掛けられて、は暗い方向に行きかけていた思考から呼び戻された。
無意識のうちに俯けていた顔を上げると、新聞の向こうの三蔵と目が合った。

「なに?」

「また何か、くだらねえこと考えてないだろうな?」

「なんで?」

「お前がそんな顔して黙り込んでる時は大概そうだからな」

そう言うと三蔵は新聞を畳んでタバコに火を点けた。

確かに、今、自分が考えていた事は、『くだらないこと』だろう。

今は、まだ目的地に向う途中で、そこに着いてからもしなければならない事がある。
帰った後のことを考えるのはそれが済んで帰途についてからでも十分間に合う。

「……そうだったのかな……?」

が呟くと三蔵はこちらに視線を向け、吸い込んだ一服目の煙をの顔めがけて吐き出した。

「わっ! ちょっと! けむっ!!」

は煙を手で払い、三蔵はそんなを見て鼻で笑った。

「もう……煙が目に入っちゃったじゃない……」

そう文句を言っては滲んだ涙を指先で拭った。

本当は煙なんて入ってない。こんなやり方だったけど、三蔵は不毛な考え事に捕まってしまいそうだった自分を引き戻してくれた。
それが嬉しかった。

旅が終わってからの事も、数年先の事も、今は何も想像できないけれど、この綺麗な紫暗の瞳に自分が映っていればいいなと思う。
金色や赤や緑の優しい視線に囲まれて、笑っていられればと思う。
皆が与えてくれる倖せと同じくらいのものをお返しできる自分でありたいと思う。

「あ……」

遠くから聞こえてきた音には耳を澄ませた。

冬のしんと冷えた空気を震わせて響いてくる梵鐘が一定の間隔で残り僅かとなった今年を刻んでいく。

「もうすぐ今年も終るね」

「ああ」

「来年もいい年にしようね」

「……今年がいい年だったような言い方だな」

「もちろんいい一年だったよ」

「どこがだ」

三蔵は笑いを含んだ声で訊いてきた。
野宿やろくな食事もできないことも多い旅の途中で、敵襲も日常茶飯事なのだから、三蔵が笑う気持ちはわかる。
は答えた。

「だって、皆と一緒だったもん」

大袈裟に言っているわけでも、お世辞でもない。
いつだってにとっては皆と一緒にいられることが一番の願いだ。

一瞬の間の後、『フン』と笑った三蔵は

「……物好きな奴だ」

と、言いながらタバコを揉み消した。
その少し上がった口角にも微笑んだ。

煩悩を払うための鐘の音を聞きながら、それでもは願わずにいられなかった。

――来年も、五年後も、十年後も、ずっと皆と一緒にいられますように――

そして

――これから始まる一年が倖せなものでありますように――

end

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