怒る

軽くため息をついて、はドアノブに手を掛けた。

ドアを開けるとテーブルで新聞を読んでいる三蔵の訝しげな顔が目に入る。

「どうした? 風呂に行ったんじゃなかったのか?」

予想していたとおりに問いかけられて

「うん。そうなんだけど……もうちょっと後にしようかなって思って……」

と、返したけれど、

「さっきもそう言って戻って来たじゃねえか! とっとと済ませろ」

そう叱られてしまった。

「……だって入ってる人がいるんだもん」

「宿に一つしかねえ大浴場なら当然だろうが。
混浴なわけでもねえんだ。我侭、言ってんじゃねえよ」

三蔵はとっく入浴をすませているし、言うことも正論なのだが、『我侭』と言われては少しばかりカチンときた。

「……『我侭』に見える? じゃあ、なんで私がそんな『我侭』言うか、わかる?」

「知るか。
くだらねこと言うヒマがあったら、さっさと入って来い」

一言で切って捨てられて、正直、むっとした。

「わからないんだ……三蔵はもうちょっとデリカシーのある人だと思ってたけど、違ったのね」

捨て台詞のように言って、は部屋を出た。

ドアを閉める時、三蔵の眉間には盛大な皺が寄っていたけれど、知ったことではない。
ムカついているのはお互い様だ。

そのまま廊下を通って浴場の前まで行ったは、中から感じる誰かがいる気配に肩を落とした。

でも、早くお風呂に入ってさっぱりしたいのも本当だ。
仕方なく引き戸を開けて脱衣所に入った。

ドライヤーで髪を乾かしている先客に軽く頭を下げ、隅の方でゆっくり服を脱ぎ始める。
人が入って来たことで遠慮したのか、ドライヤーを使っていた人はがシャツのボタンを外し終わるまでの間に出て行き、はホッとした。

一人になった隙にと手早く服を脱ぐ。身体を洗うためのタオルで胸から下を隠して浴室へと急いだ。
脱衣所にある鏡にそんな自分の姿が映る。

(あ……)

一瞬、足を止めてしまったのは、隠したいものを隠しきれていないことが見えてしまったからだ。

(……浴室の中はここより暗いし、温まればわかりにくくなるかも。
この場をクリアできればオーケー!)

そう自分に言い聞かせて、浴室に入った。

二、三人、湯船に浸かっている人がいたけれど、ここまできたら開き直るしかない。
まずは、やはり隅の方に腰を降ろして、身体を洗い始めた。

でも、『人に見られたくない』と思うそれは石鹸をつけたタオルで擦っても落ちない。

――肌に刻まれたキスの跡――

一昨日の宿でつけられたそれは昨日に比べれば少しは薄くなっているけれど、まだ紅く生々しい。

一つくらいだったら絆創膏を貼って隠すこともできるけど、こう沢山だとそうはいかないし、これだけ派手につけられていればどうしても目立ってしまうだろう。

誰かに気付かれたらと思うだけで恥ずかしくてたまらないし、自意識過剰かもしれないけれど見られているような気がしてしまう。

身体や頭を洗って湯船に入る時、入れ替わりに出て行く人たちが笑っていた。
それすら自分のことを笑われているように思えてしまうのは気にしすぎだと思うけれど、気になってしまうものは仕方がない。

先にいた人たちがいなくなって、一人きりの貸切り状態になったのを幸い、はゆっくりと温まってから浴室を出た。
人の目を気にする必要がなければ、お風呂はやっぱり気持ちがいい。

誰もいない脱衣所で身体を拭いていると、ふとした拍子に鏡に映った自分の背中が目に入った。

「あっ!!」

は思わず声を上げていた。
背中にもいくつか紅い跡が散らばっている。

胸元とか太腿とかにつけられている分は隠そうとしていたけれど、背中にまであるとは思ってなかったし、そこまで気が回っていなかった。

(え? じゃあ、やっぱり、さっきの人たち……)

身体や頭を洗っている間、背中はノーガードだった。
きっと見えていたに違いない。

笑われているように思えたのは気のせいではなかったのだ。

(うわー!!)

顔から火が出る思いだけれど、すでに後の祭りだ。
は恥ずかしさを振り払うようにバタバタと服を着て、頭をゴシゴシ拭いた。

(なんだって、こんなあちこちに、こんなにいっぱい、跡つけるのよぉっ!!)

恥ずかしさが怒りに変わるのも、怒りの矛先が三蔵に向いてしまうのも、この場合、当然だろう。

顔に化粧水をつけたり、髪をドライヤーで乾かしたりしながら、気を逸らそうと努力はしてみるけど、ムカつきは治まらない。

しかし、だ。
三蔵に『跡をつけないで』なんてお願いしても、聞く耳など持ってくれないのは目に見えている。
いや、むしろ、嬉々として跡をつけてきそうな気さえする。

昨日は野宿だったし、今日は二人部屋だし、今までのパターンから考えると、今夜、そういう事になる可能性は高い……
どうしたものだろう……?

(よし! 今日は拒否! 断固拒否よっ!!)

明日の三蔵の機嫌は悪くなってしまうかもしれないけれど、一応、お坊さんなのだから、自制を学習してもいいはずだ。

ベッドに入ったら、とっとと寝たふりをしてしまおう。
はそう決めて脱衣所を出た。

「ただいま」

部屋に戻ると、三蔵はさっきと変わらず新聞を読んでいた。
眉間の皺も消えているようだ。

脱いだ服やポーチをしまっていると

「おい」

三蔵に声を掛けられた。

「何?」

「茶を淹れろ」

「はぁい」

返事をしながら荷物を片付けて、はポットや茶器の置いてあるところに向った。

茶筒に伸ばそうとした手を止めたのは背後に気配を感じたから。
反射的に振り向こうとしたけれど、

「きゃ!?」

その前に後ろから抱きしめられていた。

「ちょっ……三蔵? お茶は?」

「気が変わった。こっちの方がいい」

そう言って顎を捕まえてきた三蔵の手を

「ヤだ!」

は慌てて押さえた。
床についたら早々に狸寝入りを決め込むつもりでいたけれど、この段階で仕掛けられるのは想定外だった。

しかし、この対応は失敗だったかもしれない。

「『嫌』だ?」

三蔵の表情がムッとしたものになる。

だが、としても後には引けない。
『今夜は拒否』なのだ。

「今日は嫌なの!」

「なんでだよ?」

「そんな気分じゃないっていうか……とにかく嫌なの!」

「そんな理由じゃ納得できねえな」

「きゃぁっ!!」

抵抗も虚しく、はベッドに押し倒されてしまった。
言い合いながら揉みあううちにベッドの傍まで押しやられていたらしい。

「ヤだ! ヤだ! ヤだぁ〜〜っ!」

ジタバタともがいてみたけれど、必死の防戦は容易くあしらわれた。

結局、さんざん好きにされてしまったは、その夜、失神に近い形で眠りについたのだった。

翌朝、が目を覚ました時、三蔵は部屋にいなかった。
きっと、朝風呂でも浴びに行ったのだろう。

いろんなものを洗い流したいのはも同じなのだが……

「これじゃ、お風呂なんて行けないじゃないのーーっっ!!」

の身体にはいつにも増した数の紅い跡が散りばめられていた。

こんな身体、他人に見られたら、その場で舌を噛みたくなるかもしれない。

手持ちのタオルをポットのお湯で湿らせたおしぼりや、野宿に備えて常備しているウエットティッシュ、制汗シートの類を駆使して後始末をしながら、の中には沸々と怒りがわいてきていた。

――三蔵のばかぁぁぁ〜〜〜っ!!!――

end

Postscript

HOME