眼鏡
買い出しから部屋に戻ると三蔵がいなかった。
(あれ? てっきり新聞でも読んでると思ってたのに……)
ユニットバスのドアもノックしてみたけれど返事はなく、念の為ドアを開けてみても、やっぱり、そこは空だった。
は少し残念な気持ちで、テーブルの、たぶん三蔵が座っていたのだろうと思われる場所の向かいに座った。
(お饅頭、買ってきたのにな……)
今日の宿も三蔵と二人部屋なので、帰ったら一緒にお茶を飲もうと思って買ってきたのだ。
(……戻るのを待ちきれずにタバコ買いにでも行ったのかな?)
テーブルの上には吸い殻が溜まった灰皿と、空になって捻り潰されたタバコのケースがある。
部屋を取る時に聞いた説明によると、この宿のロビーは禁煙になっているが、その分ちゃんと裏手の方に喫煙室が作られていて、そこにタバコの自販機もあるということだった。
きっと行き違いになってしまったのだろう。
ため息をついて視線を横にずらすと、ふと、それが目に止まった。
無造作に畳まれた新聞の隣にある――三蔵の眼鏡。
言ってあげたことなどないが、は三蔵の眼鏡姿を気に入っていた。
似合うし、知的に見えて、美形度が上がる気がする。
興味を引かれたは立ち上がってテーブルを回り、それを手に取った。
細い上枠型のフレームに付いた細めのレンズは、拭いたばかりなのか指紋一つない。
(ふーん、結構、丁寧に扱ってるのね……)
意外半分、納得半分な気持ちで眺め、ちょっとした悪戯心でそれを掛けてみた。
「あ……」
は思わず声を漏らしていた。
「……これ……遠視用なんだ」
掛けると物が少し大きく見えた。
三蔵は物を見る時に目を細める癖があるので、てっきり近視なのかと思っていたけれど、違ったらしい。
そういえば、三蔵が眼鏡を掛けるのは新聞を読む時くらいだ。
もし近視なら眼鏡は常時必要だろう。
「……ってことは――」
の脳裏には、新聞や本を読む時には眼鏡を掛けていた近所のおじさんやおばさんの姿が浮かんでいた。
「老が――」
スパーン!
短いその言葉を言い終わる前に、小気味いいほどの音と同時には後頭部に激しい衝撃を受けた。
掛けていた眼鏡が大きくズレる。
「いったぁー!」
言いながら頭を押さえ、振り向くと、そこにはハリセンを持った三蔵が立っていた。
「何、ふざけたことぬかしてやがんだ」
「言ってなかったよ!? まだ! 『老眼?』だなんて!」
「言ってるじゃねえか」
「言う前に叩かれたんだから、言わなきゃ損じゃない」
そう憎まれ口をきいて、は眼鏡を外した。
「良かった。落ちなくて」
レンズに傷や汚れがないことを確認して置いてあった場所に戻す。
その間に三蔵はテーブルに座っていた。
早速タバコに火を点けたところを見ると、やはりこれを買いに行っていたのだろう。
お茶や饅頭を口にしてもタバコと一緒ではたぶん味が変わるに違いない。
は三蔵の向かいに座って、三蔵がタバコを吸い終わるのを待つことにした。
くわえタバコで眼鏡を描け、新聞を広げた三蔵を見ながらは思い出していた。
(そういえば、私、昔は近視気味だったのよね……)
まだ故郷の村にいた頃、少し遠くが見づらくなって、眼鏡を作った方がいいのかと悩んでいたのだ。
その後、それどころじゃくなってしまったわけなのだが、今、初めて、視力が戻っていたことに気付いた。
何が視力の回復をもたらしたのかを考えて思い当たったのは旅だった。
視力の低下を感じ始めた頃、さんに『星空とか山とか、遠くを見る習慣をつけなさい』と、アドバイスされたことがあった。
旅の間は屋外で遠くの風景を見ることが多い。
それが良かったのだろう。
(あれ? じゃあ、もしかしてそれで遠視になったりってこともあるのかな?)
三蔵も以前、一人で旅をしていた頃があるようだし、今も、旅の途中だ。
近視が治るのならまだ良いが、もし万一、遠くばかりを見すぎて近くが見えなくなるなんてことがあるとしたら、それはとても切ないことではないだろうか?
そこまで考えたところで三蔵がタバコを揉み消したので、は声を掛けた。
「ねえ。お饅頭、買ってきたの。お茶、淹れるから、一緒に食べよ?」
「ああ」
三蔵のその短い返事を聞いて、はお茶を淹れるべく立ち上がった。
そして、そのティーブレイクの最中に、はさっき気になったこと――遠くを見ることで遠視になったりするのか――を訊いてみたのだが
「そんなわけあるか」
そう鼻で笑われてしまった。
「遠視の原因に環境的要因はほとんどねえ」
「そうなんだ……知らなかった」
本当は『今まで老眼って形の遠視しか知らなかったし』というセリフが喉まで出掛かっていたのだけど、またハリセンをくらっては堪らないので、替わりの言葉を探した。
「三蔵が眼鏡、掛けるのって新聞を読む時くらいよね?
普段は無くても大丈夫なの?」
「軽度だからな」
お茶を飲むことにして新聞を畳んだ三蔵は、今は眼鏡を掛けていない。
『軽度』とはいえ視力矯正用の眼鏡を所持している三蔵の目が、今、どんなふうに像を結んでいるかなんて、には知るよしも無かった。
「……私の顔、ちゃんと見えてる?」
は真面目に訊いたのだが、三蔵は、また『ふん』と鼻を鳴らし、
「くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
と、湯呑みのお茶を飲み干した。
少々、心外な気分になっただったが、それは口にはしなかった。
ここでケンカにでもなったら、せっかくの美味しいお饅頭ものんびりしたお茶の時間も台無しだ。
が言い返したい気持ちをお茶と一緒に呑み込んでいると
「おい」
声を掛けた三蔵に空の湯呑みを示された。
「はーい。お茶のおかわりね」
は返事をして立ち上がり、三蔵の傍まで行って湯呑みに手を伸ばした。
「きゃ!」
が悲鳴をあげてしまったのは、その伸ばした手を三蔵に強く引かれたからだった。
テーブルの上に伏せるように倒れこむ形になったが反射的に三蔵を見上げるのと同時に、三蔵のもう片方の手がの後頭部を抱える。
間近にある三蔵の顔が更に近づき、その唇がの口に重なった。
予想外の唐突な事には驚くことしかできなかった。
三蔵の口はまるでつまみ食いでもするようにの唇を啄ばみ、やがて離れた。
「いきなり、なに?」
そう顔を赤くするに三蔵が言い放つ。
「眼鏡なんざ掛けなくても、これくらいのことは出来るんだよ」
「……ばか」
勝ち誇ったように口角を上げる三蔵と真っ赤になって俯くの姿を、テーブルの上の二枚のレンズが静かに映していた。
end