始まり
のどかな村の静かな夜。
は母親を恋しがってむずがる男の子を抱いてあやしながら道を歩いていた。
(家の中でわんわん泣かれちゃ、ご近所迷惑だもんね……)
15歳で一人暮らしをし、他の村人の仕事を請け負って生活費を稼いでいる身としては近所からのクレームやトラブルは避けたかった。
(丘まで行ったら、ちょっと一休みしよう……)
村はずれのそこなら、少々大きな声で泣かれても大丈夫だろうし、眺めもいいから月の綺麗な夜空を見せれば、子供の気も紛れるかもしれない。
こんな時間だから近くの畑で作業をしている人もいないはずだ。
子守唄を歌いながら、ゆっくりと歩いて着いた丘には先客がいた。
座ってタバコをふかしている人の長い銀髪と白い着物は夜目にも目立つ。
(見慣れない人だな。誰だろう……?)
振り向いている顔は初めてみるものだったが、その表情は優しくてこちらに警戒心を持たせなかった。
「歌、お上手ですね」
静かで穏やかな声に話しかけられた。
「えっ‥と……うるさかったですよね? ごめんなさい」
目上の人や初対面の人にはとりあえず丁寧語を使っておく。
それは一人になってから身につけた最低限の処世術だった。
「いいえ。微笑ましい気分で聞かせていただきましたよ」
「あの……この村の人じゃありませんよね?」
「ええ。旅の途中に寄らせていただいてます」
「あ! 『偉いお坊さん』?」
『お寺に旅の偉いお坊さんが来ている』という村人の噂話を思い出して思わずそう声に出してしまったに、その人は微笑みかけ、短くなったタバコをもみ消した。
「私はフツーのオジサンですよ……ここは眺めがいいですね。いいお月様です」
その返事から、それ以上、誰何されたくはないのだという事はわかった。
(行く先々で有り難がられて窮屈なのかも?)
そう思って、
「……私も気に入ってる場所です」
そらされた話にのった。
失礼なことをしてしまってはいけないので、帰ろうと思ったのだが
「弟さんですか?」
また声を掛けられて出来なくなってしまった。
さすがにずっと立って相手を見下ろす形のままで話すのは失礼だし、ちょっと疲れてもいたので少し離れた場所に座った。
「いいえ。近所の子で、子守りのバイトです。泣いてなかなか寝てくれなくて……」
「こんな夜まで?」
「『用事があって、今夜は帰れないから』って、明日の午後までの約束なんです」
初めて会う人なのに、とても偉い人らしいのに、こんなに普通に会話できていることがには不思議だった。
この人の纏う雰囲気や声がとても穏やかで優しいせいだろうか。
「そうですか……ウチにも男の子がいましてね。昔は夜泣きに苦労させられました」
(『ウチにも』って……)
そんな偉いお坊さんが子供? と不思議に思ったが、お寺で孤児を引き取ることもあるかもしれないと思い当たった。
「子供って『お母さん』が一番だし、実の母親でも苦労する時はあるらしいから、他人じゃ苦労しても仕方ないのかもしれませんね……
ああ、泣き疲れちゃったかな?」
が抱いてずっと背中を撫で続けていた子供はやっと泣きやんで、ウトウトし始めていた。
「アルバイトも大変ですねえ」
「寝かしつけのコツは少しわかってきたんですけど、大声で泣かれるとそれが使えないんですよ」
「『コツ』ってどうするんですか?」
「内緒、『企業秘密』です」
話しやすさから悪戯心を起こしてそう答えると、その人は笑ってくれた。
「そんなすごい技なら、ウチの子が眠れない時はお願いしましょうかね」
「諸経費いただけるのなら出張しますよ」
「しっかりしたお嬢さんですねェ」
「生活かかってますから」
そんなふうに、しばらく丘で話した後、一緒に村まで戻った。
寺へと向かう分かれ道のところまで、ぽつりぽつりと他愛の無い話を続けていた。
そんな中で『自分の息子のようなものだ』という男の子の事を可愛くてたまらないというふうに話すその人は、『偉いお坊さん』というよりも『フツーのオジサン』に見えた。
「子守りが必要な時は声を掛けてくださいね」
最後に冗談っぽく言うと、その人はとても優しく微笑んだ。
「機会がありましたら、お願いします……」
守れるはずなどないとわかっている、その場だけの約束。
しかし、それは社交辞令ではなく、それぞれの優しさからのものだった。
長い時間の間に記憶の中に埋もれてしまったが、行きずりの『オジサン』との優しいひとときは、当時のにとって大きな癒しになっていた。
『子守りが必要な時は声を掛けてくださいね』
『機会がありましたら、お願いします……
その時はウチの江流の面倒をみてやってください』
も忘れてしまっているあの時の約束が、不思議な巡り合わせの上に果たされていることを知っているのは月の光だけ。
end