抱きしめて
「お茶のおかわり、いる?」
は新聞を読んでいる三蔵の顔色を伺うように声を掛けた。
「……ああ」
低い声で答える三蔵の機嫌は静かに悪い。
雨が降っているせいもあるかもしれないが、それ以外の原因の心当たりもバッチリある。
三蔵は、今日の事を不快に思っているに間違いないのだ。
自分が八戒と二人で出かけたのは人助けだったし、相手が熱を出した子供だったこともあって、誰もそれに反対はしなかった。
ジープを先に帰したのは三蔵が落としていたカードを少しでも早く届けるためだったし、帰りが遅くなったのは歩いて帰る途中に雨が降りだしたせいで、天候の悪化はどうしようもない。
つまり、にしてみれば謝らねばならないようなことは何もないし、それで不機嫌になられても困るのが正直なところだ。
いつもなら『触らぬ神に崇りなし』で放っておくのだが……
三蔵には話せないことがあったという事実がに後ろめたさを感じさせていた。
あれは、八戒の言葉を借りれば『緊急避難措置』で、実際、そうしなければ今頃、風邪をひいていただろう。
二人とも火種になりそうなものは持ってなかったし、風も強かったから火をおこすことは不可能で、他に方法はなかった。
八戒が自分の身体を盾にして風を防いでくれたことには感謝しているし、雷を怖がる自分に気を遣ってくれていたことも知ってる。
風が凪いで雨が小降りになった頃にはさり気なく離れてくれたし、小雨の中を飛んで迎えに来てくれたジープに乗って帰る間も帰ってからもいつもどおりの八戒だった。
だから、他意はなかったと信じている。
それでも、あんなふうに温めあった事は、三蔵には言えない。
いや、誰にも言えない。
そして、それで結構ドキドキしてしまった事が三蔵にも八戒にも申し訳なくて、は自己嫌悪に陥っていたのだった。
でも、三蔵と二人で部屋にいる今、いつまでもうじうじと考えていたら、きっと三蔵は何か隠し事があるということには気付いてしまうだろう。
(そう! 『緊急避難』の『不可抗力』だったの! だから、なんでもないの!
もういいの! 考えるのは終わりっ!!)
はお茶を湯呑みに注ぎながらそう結論付け、頭を切り替えた。
三蔵がカードを落としさえしていなかったら、そのままジープで雨が降り出す前に町に着けていただろう事に気付いていないのが、のちょっと抜けているところであり、だから三蔵にも責任の一旦はあるのだという事に考えが至らないのが、のお人好しなところであった。
目の前に差し出された湯呑みを手に取った三蔵は適温のお茶を飲み込んだ。
いつもと同じように淹れられたはずの茶なのに苦く感じるのは気分のせいだ。
イラつくのは雨のせいだけじゃない。
日中から、が食堂を出て行った時からこうだった。
の姿が見えないと落ち着かないようになったのはいつ頃からだっただろう?
最初は目を離すと何をしでかすかわからないと、それで面倒に巻き込まれるのは御免だと、それだけでしかなかったのに……
いつの間にか自分の中に、それ以外の理由が出来上っていたことに気付いたのは……
八戒と一緒なのだから、一人きりや悟空や悟浄と二人でいるよりはマシだろうと思いつつも、が自分以外の男と出かけてなかなか戻らない状況に苛立ちを抑えられなかった。
しかも、二人の帰りが遅くなった原因の一つに自分がカードを落としていたことがあるので誰にも八つ当たりなどできず、発散することさえできなかった。
帰ってきたの態度が少しぎこちないように感じたのは、たぶん気のせいじゃない。
自分の不機嫌の原因に帰りが遅くなったこともあると感じての事だろうとは思うが、それは他に何か理由がないという確証にはならない。
まあ、疑いだせばキリはなくなってしまうのだが……
(……たぶん、雨のせいだ……)
日中から断続的に降り続いている雨は、今も夜の闇の中にその音を立てながら一体を湿らせている。
雨は大事なものをなくした時の失望感と後悔を甦らせ、自分の不甲斐なさを目の前に叩きつける。
そして――
なくすことに対する不安を掻き立てるのだ……
眺めているだけでろくに活字を追ってもいなかった新聞から視線を上げてを見てみた。
テーブルの向かいに座って本を読んでいるは落ち着いているようで、いつもと変わらなく見える。
やはり気のせいなのだ。考え過ぎなのだ。
そう思いながら新聞を畳んだ。
それでもイラついてしまうこんな雨の夜は早く寝てしまうに限る。
「寝るぞ。灯り消せ」
三蔵は新聞をテーブルの上に投げ出しベッドへと向かった。
「はーい」
は返事をして本を閉じ、席を立って壁のスイッチをオフにした。こんな時に『キリのいいところまでもう少し読みたい』などと言っても三蔵の不機嫌が悪化するだけだということは知っているのだ。
(朝までには晴れてるといいな……)
そうしたら三蔵の機嫌もなおるだろうし、自分も、朝、八戒の顔を見てもいつもどおりでいられるだろう。
そんなことを考えながら自分のベッドにもぐりこんだ。
「……おやすみなさい」
普段なら『ああ』とか『とっとと寝ろ』とか言ってくれるけど、今夜は返事はない。
それは雨の時にはいつものことなのでも気にしない。
(明日は晴れますように……)
そう思いながら閉じた瞼の向こうに光を感じた。
反射的に目を開くと同時に聞こえたのは、昼間よりも大きな雷鳴。
身体がビクッと強張った拍子に引っ張ってしまった毛布がパサッと音を立てた。
その間にも稲光が灯りの消えた室内に差し込み、立て続けに響く轟音が窓ガラスをビリビリと震えさせている。
はたまらなくなって身体を起こし、
「……三蔵……」
隣のベッドの三蔵を呼んだ。
「……ねえ……? ……起きてる……?」
返事はないけれど、これだけの音がしているのだ。
眠っているとは思えなかった。
もう一度、声を掛けようと口を開けた時
「なんだ?」
こちらに背を向け横臥した姿勢はそのままに、不機嫌そうにも面倒くさそうにもとれる声が返ってきた。
「……そっちに……行っても、いい……?」
雨の夜には、三蔵はには触れてこない。
それはわかってるし、それを望んでいるわけでもないけれど、より三蔵の近くにいた方が安眠できるのは、今までの経験からも明らかだった。
「……来たけりゃ来い」
しばらくの間をおいての返事はぶっきらぼうだったけど、後姿しか見えない三蔵が少し身体をずらしての入るスペースを作ってくれたのはわかった。
「ありがとう……」
こんな夜で不機嫌なのに自分の我侭に付き合ってくれる三蔵が嬉しくて、は涙が滲んできた目を瞬かせながら三蔵のベッドに寄った。
そっとベッドに乗って、横になろうとしている途中で、ベッドについていた手がグイッと引かれた。
「わっ!」
声を上げた次の瞬間には、いつの間にか向きを変えていた三蔵の胸の中に抱き込まれていた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
三蔵は不機嫌なはずだ。
たぶん、背中合わせに眠ることになるとばかり思っていたのだ。
「三蔵?」
もちろん、嬉しいのだが、思わず呼びかけた声が問いかけ調になってしまったのも無理はなかった。
「こうしてると落ち着くんだろう?」
三蔵から返ってきた言葉は意外で、でも、しみじみとした喜びでの胸を満たした。
今までにも何度か『落ち着くから』と三蔵にしがみついてそのまま眠ってしまったことがあった。
それを、三蔵は覚えていてくれたのだ……
「……うん」
それだけ答えるのがやっとで、声に出せなかった言葉の代わりには身体を三蔵に擦り寄らせた。
体温や鼓動、息遣い。
大好きな人の命のぬくもりが伝わってくる。
この上なく倖せな温かさだった。
そして、それは三蔵も同じだった。
腕で、胸で触れている存在の確かさが、
心に安らぎをもたらしていることを自覚していた。
もう、雷の音は気にならない。
もう、雨の音は気にならない。
抱えていた後ろめたさも自己嫌悪も、不機嫌の原因も不安も、すべてがこの愛しい温かさの中に溶けて消えていく。
――だから、もっと、抱きしめて……――
――だから、今夜はこうしていよう。お前を胸に抱きしめて……――
互いのぬくもりに包まれて、二人は穏やかな眠りに落ちていった。
end